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F1ドライバー

F1 | キミ・ライコネン(Kimi Raikkonen) 2019年

キミ・ライコネン(Kimi Raikkonen) 2019年

フィンランド / アルファロメオ・レーシング /

ゼッケンNo. :7

●国籍:フィンランド
●生年月日:1979年10月17日(39歳)
●身長/体重:175㎝/70㎏

●出走:21回 
●優勝:1回(勝率:4.76%)
●表彰台:12回(獲得率:57.14%) 
●入賞:17回(入賞率:80.95%)
●完走:17回(完走率:80.95%) 
●PP:1回(獲得率:4.76%)
●Q3進出:21回(進出率:100%) 
●Q2進出:21回(進出率:100%)
●FL:1回 
●予選平均順位:3.85位
●決勝平均順位:3.23位

●F1デビュー:2001年第1戦オーストラリアGP
●在籍チーム:ザウバー(2001年)→マクラーレン(02~06年)→フェラーリ(07~09年)→ロータス(12~13年)→フェラーリ(14~18年)
●出走:291回 
●優勝:21回 
●PP:18回
●FL:46回 
●表彰台:103回 
●入賞:204回
●通算獲得ポイント:1816点
●ドライバーズ選手権最上位:1位(2007年/フェラーリ)

■キミ・ライコネン プロフィール

 最初にカートに触れたのは8歳。12歳でレースを走り始める。そのカートでの生活が長く、フォーミュラ転向は20歳を迎える年だ。

 だが活動資金は充分ではなく、1999年のフォーミュラ・フォード・ヨーロッパ参戦はわずか2レースで打ち切る。年末が近づくと英国のフォーミュラ・ルノー・ウインターシリーズにシートを見出し、4戦4勝の結果を残して翌2000年のレース活動続行につなげた。

 00年のフォーミュラ・ルノーUKは10戦7勝2位1回3位2回のオール表彰台でシリーズ制覇。同ユーロカップにも2レースのみに参加し、2戦ともに勝利した。

 しかし、上のカテゴリーに進めるだけの自己資金はなかった。救世主となったのが、ザウバー(現アルファロメオ)だ。フォーミュラ・ルノーでの異様なまでの勝率に目をつけ、9月のテストに招待した。テストはへレスとバルセロナのスペイン2カ所で行なわれたが、F1初ドライブにもかかわらず、タイプの異なるふたつのサーキットでいずれも印象的なペースを残す。チームはすぐさま、翌01年のレギュラードライバー起用を決断した。

 だが、この契約は物議を醸す。F3の経験すらないドライバーを、F1で走らせていいものか。経過をみるべきとの意見が多く、デビュー時に発給されたF1スーパーライセンスは暫定かつ4戦限定というものだった。

 しかし開幕戦オーストラリアを予選13番手からスタートを切ると、6位入賞を果たす。これによって雑音は封じられ、正規ライセンスの発給に至る。この年、最高位は4位(2回)をマークした。

 それもシーズンまだ前半段階のことで、大物新人ぶりに早くもトップチームたちからの食指が動く。当初はフェラーリでのテストドライバーからレギュラーへの道が取り沙汰されたが、02年に向けては同郷ミカ・ハッキネンの引退でひとつシートが空くマクラーレンが最終的に争奪戦に勝った。

 マクラーレン移籍を果たすと、緒戦オーストラリア3位でF1初表彰台。この年は勝利こそならなかったが、終盤までリードしたレースもあり、最高位2位を含む計4度の表彰台を得る。

 03年は、F1トップドライバーとしての地位を確立した年だ。第2戦マレーシアでフェルナンド・アロンソとの攻防を制して、F1初勝利を挙げた。第9戦ニュルブルクリンク開催のヨーロッパGPでは、初ポールポジションも獲得。優勝は1回に留まるものの、しぶとく入賞を重ね、最後はわずか2ポイント差でミハエル・シューマッハーとのドライバーズタイトル争いに敗れる。

 次に王座に近づいたのが、05年。アロンソと並ぶシーズン最多7勝で激しく争うも、最終的には振り切られた。06年はマクラーレンが開発を失敗し未勝利だったが、シューマッハーの後継として07年フェラーリ移籍が決まった。

 そして迎えた07年、ルイス・ハミルトン、アロンソとの間の三つ巴決戦を最終戦ブラジル優勝でふたりを1ポイント差退け、逆転で初のF1ドライバーズチャンピオンを手にした。だが08年は終盤で王座争いから脱落、09年はクルマの不調で1勝を挙げたのみ。10年に向けてフェラーリはアロンソ獲得に動き、チーム放出が決まる。

 移籍交渉も不発で、とった選択肢は翌10年からのWRC(世界ラリー選手権)参戦だ。すでに09年中にはF1スケジュールを縫って複数のラリーを走っており、そこには自国フィンランド開催のWRCも1戦含まれていた。

 ラリーではシトロエンと手を結び、フル参戦ではなかったものの、その後2年のWRCシーズンを過ごす。最高位は10年トルコでの総合5位。11年は米国NASCARにもスポット参戦し、プジョーのル・マン24時間レース向けスポーツプロトタイプをテストする等、広範囲の可能性を探る時期もあった。

 そのなかで秋口には、ウイリアムズとの接触が報じられる。F1復帰への動きが加速し、最終的には12年契約をロータス(現ルノー)との間に結んだ。2年のブランクを跳ね返し、第18戦アブダビ優勝を含む7度の表彰台に立ち、ドライバーズランキング3位獲得。13年も開幕戦オーストラリアで1勝を挙げるなど好成績を続け、14年の古巣フェラーリへの復帰が決まった。この年は終盤に背中の痛みを訴えて、治療のために最後の2戦を欠場した。

 14年はアロンソと組み、15年からはセバスチャン・ベッテルが跳ね馬でのパートナーとなった。このフェラーリでの第2期はチームメイトとの争いに敗れ、表彰台やポールポジションはあるものの、長く勝利から遠ざかる。最初の2年契約が切れる15年からは毎年のように翌年のチーム放出がささやかれてきたが、18年まで残留。そして18年9月、シャルル・ルクレールとシートを入れ替えるような形で、かつてのデビューチームであったアルファロメオとの2年契約が公表される。そこから2カ月後の第18戦アメリカGPに勝ち、F1歴代最長ブランクとなる113戦ぶり勝利をあげた。

 アルファロメオ移籍1年目の19年は、同僚アントニオ・ジョビナッツィの3倍を超す獲得ポイント43を挙げた。

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