ネルソン・ピケは、3日、長い声明を発表、雇用主であるルノーF1チームから解雇通知を受け取ったことを明らかにした。この声明においてピケは、チームボスでありマネージャーであるフラビオ・ブリアトーレを“死刑執行人”と呼び、自分のキャリアにダメージを与えたとして激しく非難すると共に、これからF1で新しいスタートを切ると宣言している。

 ピケの声明は以下のとおり。

「僕はルノーF1チームから、現在のF1シーズンで僕を走らせるのをやめる意向であるとの通知を受け取った。このような通知を受け取り、当然のことながらとても失望してはいるが、僕を支えてくれた一部の人たちに対し、ルノーF1で共に働いたことを感謝したい。しかし同時に僕は、僕のキャリアの最悪の期間が終わることに、ある種の安堵を感じている。また、僕はこれから自分のキャリアを正しい方向に修正して前進し、僕は速く、勝てるドライバーであるという評判を取り戻すチャンスが訪れるのだと感じている。僕はチームプレーヤーであり、これまで共に働き、僕の性質や才能を保証してくれる人々は大勢いる。しかしあいにく、そこには僕のF1キャリアにおいて最も大きな影響を及ぼした人物は含まれていない」

「僕は8歳の時にレースを始め、次々と記録を塗り替えてきた。ゴーカートでレースをした際はすべての選手権を制した。南アメリカF3チャンピオンとなり、14回の勝利と17回のポールポジションを獲得した。2003年には自分のチームでイギリスに行き、イギリスF3選手権に参戦した。ここでも12回の勝利と13回のポールポジションを獲得し、チャンピオンとなった。僕は当時の最年少チャンピオンに輝いた。2005年と2006年にはGP2に参戦し、5回の勝利と6回のポールポジションを獲得した。2年目は素晴らしいシーズンを送り、チームの技術上のミス(同時に自分自身のミスとも受け止めているが)によって惜しくもルイス・ハミルトンにタイトルを奪われた。このミスにはレース中のガス欠も含まれる。ぼくは2006年ハンガリーで、GP2で最大ポイントを獲得し、初の完璧な週末を送ったドライバーとしても記録された。この記録は長く誰も達成しなかったが、2009年7月にニコ・フルケンベルグがニュルブルクリンクで成し遂げている」

「F1への道のりは険しいものだ。したがって父と僕は、フラビオ・ブリアトーレとマネージメント契約を結んだ。彼はすべての必要な契約を有し、マネージメントのスキルを持ち合わせており、最高の選択肢であったと考えていた。残念ながら、これが僕のキャリアの暗黒時代の始まりとなった。僕は1年間をテストドライバーとして過ごし、ほんの数回のテストを行って、翌年からルノーのレースドライバーになった。シーズン序盤を終えるころ、奇妙な状況が起こり始めた。F1のルーキーとして、僕はチームが多くのサポートを提供し、仕事ができるようになるための準備をしてもらえることを期待していた。しかし実際には、僕は“もう一台のマシンをドライブする人間”というポジションに追いやられ、全く関心を払われなかった。さらに、これは何度もあったことだが、予選や決勝前の15分、マネージャーでありボス(のブリアトーレ)が、僕を脅し、もしいい結果を出さなければ代わりのドライバーを連れてくる用意はあると言った。僕は結果を出す前に脅される必要はなかった。2008年には僕は2位表彰台を一度獲得して19ポイントを上げ、ブラジル出身のF1ドライバーとしては最高のデビューイヤーを飾ったのだ」

「2009年シーズンにも、ブリアトーレは僕のマネージャーとルノーF1のチームボスの役割を果たすこととなり、彼はこれまでとは状況は一変すると約束し、僕には僕に見合うだけの関心、しかしこれまで僕が受けることができなかった関心が払われると言われた。さらに、チーム内で“少なくとも同等の扱い”を受けることになるとも約束された。彼は、僕がシーズン半ばまでにフェルナンド・アロンソの40パーセントのポイントを獲得する必要があるというパフォーマンス条項に僕にサインさせた。2度のワールドチャンピオンであり本当に素晴らしいドライバーであるフェルナンドと走っていても、僕はもし同じ条件であれば、契約に定められた40パーセントのポイント獲得は楽に成し遂げられたはずだと確信している」

「残念ながら今回も約束は果たされなかった。新車のテストで僕は2002kmを走ったが、フェルナンドは3839km走行した。僕はドライコンディションで3日しかテストができなかったが、フェルナンドがウエットで走ったのはわずか1日だ。僕は重いマシンで、ハードタイヤを装着し、だいたいが初日(スピードが出ず、信頼性もあまり発揮できない)や天候の悪い日に走らされた。フェルナンドは軽いマシンでソフトタイヤでドライのよいコンディションで走行した。僕は今の予選システムに向けて準備をするチャンスを一切もらえなかった。今のF1では1位と15位の差は時には1秒にも満たない。つまり、0.2秒や0.3秒でポジションが8つも上がってしまうことになるのだ」

「それに加えて、今はシーズン中のテストが禁止されているために、マシン開発は一戦一戦に取り入れられていく。今年の最初の9レースの中で、4レースにおいてフェルナンドだけに大きなマシンアップグレードが導入された。ルノーのエンジニアに、そういったレースでは僕のマシンはチームメイトより0.5秒から 0.8秒遅いと言われた。ドイツ(ここではそれにもかかわらず僕はチームメイトより予選順位が上だった)を見れば、そのアドバンテージが予選で僕にあれば、10位ではなく5位になっていたことがわかる。レースでそのアドバンテージがあれば、僕はチームメイトより前でフィニッシュしていただろう。実際シルバーストンでは彼の方だけにアップグレードがなされていたにもかかわらず、僕はそれを成し遂げている」

「僕は自分の才能とパフォーマンスに疑いを抱いていない。成績が悪ければここまで成功を収めることはできていない。僕の歴史を知る誰もが僕のF1での結果は僕のCV(履歴書)や能力に見合ったものではないことを知っている。過去2年の間に僕が対応しなければならなかった状況は、控えめに言っても非常に奇妙なものであり、自分の身に起こったものとは信じられないような出来事が起こった。もし説明が必要であれば、これは過去2年に過ごした不公平な状況によるものであると断言できる。僕は常々、マネージャーを持つことはチームを組むことでありパートナーを持つことであると信じてきた。マネージャーは励まし、サポートし、さまざまな機会を与えてくれる存在のはずだ。だが僕の場合は、反対だった。フラビオ・ブリアトーレは僕にとって死刑執行人だった」

「僕はプレッシャーに慣れていないわけではない。キャリアを通して批判は受けてきたし、この名前の影響で大きな期待もかけられてきた。これまで僕は常にその期待に応えてきた。期待を上回ってきたとさえいえる。過去には自分を弁護したりウワサや批判に反撃しなければならないと感じたことはなかった。僕は真実を知っており、レースに集中することだけを望んだため、そういったものの影響を受けなかったのだ。幸いにも、僕はこれまでサポートしてくれた人々に対して、自分が正しい道に戻り、公正かつポジティブな形でF1キャリアの新たなスタートを切るための選択肢を考えていると、伝えることができる」

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