2016年1月18日、がんで闘病中だったマイケル・マクダウェルがこの世を去った。わずか17周──彼がグランプリで記録した生涯通算周回数は、長年にわたってF1世界選手権史上最短だった。
マクダウェルのキャリアは、アマチュア向けのクラブレーシングから英国ヒルクライム選手権でのタイトル獲得までの広範囲におよび、Eタイプ全盛期のジャガーのコンペティションマネージャーも務めている。
1932年に英国のサフォーク州に生まれたマクダウェルは、レースを始めた1954年に早くも頭角を現し、ロータス6で2勝をあげた。翌55年にロータス9に乗り換えると、750モータークラブの1172フォーミュラ選手権で圧倒的な強さを見せ、さらにル・マン優勝者のアイバー・ブエブとクーパーT39「ボブテイル」(写真)のワークスカーをドライブして、ダンドロッドでのRCAツーリストトロフィー・レースでクラス優勝(総合10位)を飾った。56年にもスポーツカーで好成績をあげ、チャールズとジョン・クーパーの親子は、報奨としてマクダウェルにF2カーでレースに出る機会を与えている。
大きなチャンスは1957年に訪れた。クーパーが、エンジンは1500ccながら(当時のF1規定は2000cc)F1仕様のクーパーT43を彼の手にゆだね、フランスGPに出場させたのだ。舞台は危険なコースとして知られるルーアンのストリート・サーキットだった。このレースではファン・マヌエル・ファンジオ、ルイジ・ムッソ、ジャン・ベーラが先頭集団を形成し、英国の星マイク・ホーソーンとピーター・コリンズもフェラーリの名に恥じない活躍を見せた。そしてクーパーのチームリーダー、ジャック・ブラバムが2000ccエンジンを積んだT43にダメージを与えたため、マクダウェルはピットインしてブラバムにマシンを譲るよう命じられた。結局ブラバムはトップから大きく遅れて、7位でレースを終えている。
その後マクダウェルは1964年までスポーツカーやツーリングカーでレースを続行。彼が乗っていたジャガーMk2やフェラーリ250GTOは、1950年代にレーサーとしても活躍した裕福な自動車ディーラー経営者ジョン・クームスが所有するもので、クームスはジャッキー・スチュワートら有望な若手に自分のクルマをドライブする機会を与えており、ジャガーとの強いコネクションもあった。その縁で、のちにマクダウェルもクームスが経営するディーラー、クームス・オブ・ギルフォードの役員に迎えられている。
マクダウェルは1968年にジャガーEタイプで再びヒルクライムに出場。また「レースの虫」が騒ぎ始めるとシングルシーターに乗り換え、1969年にブーレイベイで国内選手権ラウンド初勝利を記録した。このとき乗っていたのはブラバム・クライマックスBT30Xだが、翌年から2年間はブラバムと3000ccのレプコV8エンジンの組み合わせで、さらに2勝を挙げている。次にドライブしたF2用ブラバムBT36に5000ccのレプコV8を積んだマシンが成功へのチケットになった。1972年シーズン終盤の勝利ではずみをつけて1973年、1974年のRACヒルクライム選手権を連覇し、特に74年はシーズン16勝という文句なしの強さを発揮した。
その後、マクダウェルはユニークなBMWの3000ccエンジンを積んだシェブロンB19や、ラリー・パーキンスが1975年ヨーロッパF3選手権タイトルを獲得したラルトRT1にブライアン・ハートのF2エンジンを搭載したマシンでヒルクライムを戦った。ちなみにハートとマクダウェルには、1172選手権の元チャンピオンで、1度だけF1世界選手権に出場(ハートは1967年ドイツGP参戦)という面白い共通点がある。のちに、このラルトはティレルのデザイナー、デレック・ガードナーの手によって改造され、3300ccのコスワースDFVを積むマシンに生まれ変わった。
マクダウェルは1979年の終わりにヒルクライムからの引退を決意。その後もBRDC(英国レーシングドライバーズクラブ)の活動に積極的に参加し、シルバーストンのヒストリック・フェスティバル基金の立ち上げに貢献した。また旧友のクームスが出資したギルフォードのガレージでヒストリック・レースカーの製作業務にも携わり、ヒストリックレーシングの舞台裏を支えた。
追記:現在のF1生涯最小周回数記録は、唯一の出場機会となった1993年イタリアGPを0周で終えたマルコ・アピチェラが持っている。