イギリス
生年月日 | 1999年11月13日 |
国籍 | イギリス |
身長 | 170 cm |
体重 | 64 kg |
生年月日 | 2001年4月6日 |
●チーム本拠地:イギリス・ウォーキング
●デビュー:1966年第1戦モナコGP
●活動年:1963年~
●出走数:950
●勝利数:183(初優勝:1968年第4戦ベルギーGP)
●PP獲得数:156(初PP:1972年第11戦カナダGP)
●コンストラクターズ・タイトル:8(1974、84~85、88~91、98年)
●ドライバーズ・タイトル:12(1974、76、84~86、88~91、98~99、2008年)
●主要チームスタッフ:
ザク・ブラウン(マクラーレン・レーシングCEO)
アンドレア・ステラ(チーム代表)
ピーター・プロドロモウ(空力部門テクニカルディレクター)
ロブ・マーシャル(テクニカルディレクター)
デイビッド・サンチェス(ディレクター・オブ・カーコンセプト&パフォーマンス)
平川亮(リザーブドライバー)
パト・オワード(リザーブドライバー)
英国を代表する名門で、F1初参戦は1966年。現存するチームのなかでは、2番目に古い歴史を持つ。ただ、『マクラーレン』の名前は不変でも、このチームには複数回の大規模な体制刷新があり、創設時のルーツがいまも引き継がれているわけではない。
レーシングチームとしての起源は、63年に設立された『ブルース・マクラーレン・モーターレーシング』ということになる。創始者ブルース・マクラーレンはカテゴリーを問わず世界中を股にかけるトップドライバーとして当時知られ、F1には59年にデビュー。その年の最終戦で初優勝を記録した。22歳104日での達成は、2003年にフェルナンド・アロンソに更新されるまで、長く史上最年少ウイナー(かつてカレンダーに含まれたインディ500を除く)の座にあった。
66年からチームはシャシーの自製を始め、F1にも参入。3年目の68年に当時開催されていた非選手権レースにまず勝利すると、同年第4戦のベルギーにブルース自身のドライブで正式なF1初優勝を果たす。
ところが70年の6月、ブルースは自製スポーツカーをテスト中の事故で他界してしまう。チームは創設メンバーのひとりだった、テディ・メイヤーが引き継いだ。
72年からチームは大規模スポンサーを迎えるようになり、74年にはタバコ大手の『マールボロ(=フィリップモリス社)』が参入。その初年度にコンストラクターズ選手権を初制覇、エマーソン・フィッティパルディが自身2度目でチームには初のドライバーズ王座をもたらした。76年はジェームス・ハントがドライバーズ王座獲得。だが78年からは、低迷期を迎える。
これに業を煮やしたのがマールボロで、80年のシーズンを終えると下部カテゴリーで関係の深かったロン・デニスをチーム運営に送り込んだ。デニスはメイヤーと並ぶ共同代表となり、社名は『マクラーレン・インターナショナル』に変更。実質的にはデニスに指揮権が移り、メイヤーは82年終わりで株式一切を手放しチームを完全に退いた。
デニス体制ではF1にターボ時代到来とともに、ウイリアムズのスポンサーだった『TAG』から資金を引き出してポルシェにエンジン製作を依頼。83年の終盤で、それまでのフォード・コスワース自然吸気から『TAGポルシェ』ターボにエンジンをスイッチした。
84年はこのマクラーレン・TAGポルシェが猛威を奮い、16戦12勝。10年ぶりコンストラクターズ王座に返り咲き、ニキ・ラウダのドライバーズタイトルと2冠とする。85、86年はラウダを引き継ぐ形で、アラン・プロストがドライバーズタイトルを連覇。だが86年は、コンストラクターズ選手権をウイリアムズに奪われる。
87年は無冠に終わるが、翌88年に向けてウイリアムズのパートナーだったホンダのエンジン供給契約を取りつける。同時にアイルトン・セナをドライバーに迎え、プロストとのコンビで16戦15勝を挙げる。セナがこの88年、F1がターボ禁止となった89年はプロスト、90、91年はセナがドライバーズ王座に就き、コンストラクターズ選手権4連覇とともに、『マクラーレン・ホンダ』は隆盛を極める。
だが92年、ルノーにパートナーを変えたウイリアムズに敗れると、ホンダはこの年限りでF1を撤退。93年フォード、94年プジョーとエンジンサプライヤーを換え、95年からはメルセデスと手を組んだ。
メルセデスとは長く蜜月を保ち、98年にミカ・ハッキネンがドライバーズ、チームはコンストラクターズの2冠を奪回。99年のコンストラクターズ王座は逃すも、ハッキネンがドライバーズ選手権を連覇した。
その後しばらく王座からは遠ざかり、07年にはフェラーリからの機密漏洩問題を起こして、1億ドル(当時のレートで約114億円)の罰金を科された。
08年ルイス・ハミルトンのドライバーズ王座が久々のタイトルとなる一方、翌09年4月にデニスはチーム代表の座から退く。このころにはマクラーレンは企業として巨大化し、09年には量産車部門を設立。デニスはその会長に就くことになったが、実際には『マクラーレン・グループ』のトップとしてF1チームにも院政を敷く。
12年に1度デニスはグループCEOから退くが、14年に復帰。13年中には15年F1復帰のホンダとのコンビ復活が発表され、長年に渡るメルセデスとの関係は14年で解消となる。
そして、マクラーレンは巨大化するなかで、次の事態が起こる。16年11月の株主総会で、持ち株が25%に過ぎなかったデニスをグループCEOから退任させることを決めたのだ。これでデニスの40年近くにおよぶ支配体制は終わり、翌17年6月にデニスは持ち株のすべてを売却した。デニスの影響力がおよばなくなったチームはホンダとの関係を絶ち、翌18年からのルノー・パワーユニット(PU)搭載を決める。
12年を最後にレース優勝から遠ざかるチームだが、19年にはその年以後で最高のコンストラクターズランキング4位となり、新体制で復調の兆しを見せ始めた。なお20年はルノーPUを継続するが、21年からはメルセデスを再度サプライヤーに迎える。
2019年に続き、2020年もカルロス・サインツJr.とランド・ノリスのペアでシーズンを戦う。7月の第1戦オーストリアGPでは、他車のペナルティによってノリスの順位が繰り上がり、ノリスはF1初表彰台を獲得。マクラーレンは序盤から好調で、安定して入賞を重ねていきルノーやレーシングポイントと中団勢のトップを争った。
シーズン途中にはルノー勢パワーユニットに何度かトラブルが発生したが、第8戦イタリアGPではサインツJr.が自己最高位の2位に入賞。メルセデス、レッドブルに続くコンストラクターズランキング3位という成績でシーズンを終えた。なおシーズン開幕前の時点でサインツJr.がフェラーリへ移籍することが決まっており、その後任にはダニエル・リカルドが新たに加入する。
ノリスと新加入のリカルドというペアで臨んだ2021年シーズン。ノリスもリカルドも序盤から入賞を重ね、ノリスはエミリア・ロマーニャGPで表彰台を獲得。リカルドはマクラーレンのマシンと自身のドライビングスタイルを合わせるのに苦戦したが、イタリアGPで移籍後の初優勝を挙げた。この勝利はマクラーレンにとって2012年以来のもので、ワン・ツーフィニッシュは2010年以来となった。コンストラクターズ選手権では3位につけていたが、終盤にフェラーリの逆転を許して4位となっている。
2022年はプレシーズンテストからブレーキの問題を抱えており、開幕戦は2台揃ってリタイアに終わった。その後ノリスは安定して入賞を重ね、エミリア・ロマーニャGPでは表彰台を獲得。一方のリカルドは振るわないレースも多く、8月にはチームとの契約を早期に解除することに双方で合意した。リカルドは2023年に古巣レッドブルでリザーブドライバーを務めることになり、マクラーレンは2023年のノリスのチームメイトにオスカー・ピアストリを起用する。
2023年はノリスと、新人のピアストリを起用。序盤はマシンパフォーマンスの低さに悩まされた。マクラーレンは夏頃から複数回にわたる大型アップデートに取り組むと、そこからパフォーマンスは大幅に改善した。ノリスもピアストリもしっかりと入賞できるようになり、日本GPではダブル表彰台を獲得。さらにはカタールGPのスプリント・シュートアウトではピアストリがトップタイムをマークすると、そのままスプリントレースもトップでチェッカーを受け、スプリントとはいえピアストリはルーキーながら初優勝を掴んだ。ノリスは勝利こそなかったが、最終的にマクラーレンはコンストラクターズ選手権でアストンマーティンやアルピーヌを逆転し4位でシーズンを終えた。またこの年、日本GPでマクラーレンは2024年からリザーブドライバーとして平川亮を起用すると発表。同時期にはピアストリとの契約延長を発表し、2024年の1月にはノリスとも複数年契約を締結したため、マクラーレンは少なくとも2026年までノリスとピアストリのペアで戦うことになる。
公式URL:
http://www.mclaren.com/
Facebook:
https://www.facebook.com/McLaren.Racing
Instagram:
https://www.instagram.com/mclaren/
Twitter:
Tweets by McLarenF1