1970年6月14日に千葉県千葉市で生まれた原田哲也は10歳のときに父親にポケバイを買ってもらい、レースを始めた。
ほとんど毎週のようにレースに出て、マシンに何かあった時以外は勝ち続けていた原田。だが、ちょっとしたことで負けると悔しくて泣いていたこともあったという。
そして12歳の時にミニバイク・レースにステップアップしたのち、87年にノービスライセンスを取得。ルーキーイヤーにノービスクラスの125ccチャンピオンになった。
この頃、原田のライバルには若井伸之がいた。家が近所だったこともあり、お互いの家を行き来するようになった原田と若井。原田は三歳年上の若井のことを兄のように慕っていた。ふたりの友情関係は、93年に若井がスペインのへレス・サーキットで事故死するまで続いた。
88年にジュニア125ccクラスでチャンピオンになった原田は89年に国際A級250ccクラスにステップアップし、19歳という若さでヤマハのワークスライダーとなった。
後日原田に『現役時代のライバルは誰だったのか?』と尋ねた時、彼は「全日本の時は岡田(忠之)さん。GPに行ってからはマックス・ビアッジでしたね」と答えた。
原田と岡田のライバル関係は熾烈だった。89年から91年に3年連続で全日本250ccチャンピオンになった岡田。原田がヤマハのワークスライダーであったのに対して岡田はHRCのワークスライダーだった。
このふたりの戦いは個人レベルの戦いではなく、ヤマハとホンダという2大メーカーのぶつかりあいだった。
だが、実際に競い合うのはふたりのライダー。いくら資金が豊富な大メーカーといえども、最後の最後はライダーの意地のぶつかり合いとなる。スロットルひと開け、ブレーキレバーひと握り、そして一瞬の瞬きの差となってくるのだ。
92年の全日本ロードレースではこのふたりの負けん気が激突した。全12戦のレースで原田が6勝、岡田が4勝を挙げ、他のライダーを圧倒した。ふたりの差が1秒以下だったことが実に5回もあった。
中でも6月に鈴鹿サーキットで行われた第6戦では原田と岡田が同着首位となった。写真判定でも決着がつかなかったのである。
このときは表彰台の中央にふたりが並んで立った。私はふたりがどんな表情で表彰台に立つのか見てみたいと考え、普段はわざわざ表彰台には近づかないのだが、鈴鹿では見に行ってみた。
ふたりは喜んでいるのだろうか、お互いの健闘を称えあって握手するのか……?
ところが、ふたりは表彰台の中央に憮然とした表情で立っていた。勝ってもちっとも嬉しそうではなく、相手の存在は眼中にないといったフン!とした様子をしていたのだ。
原田哲也と岡田忠之。このふたりのライバル関係は、その後93年に世界グランプリに行ってからも続くことになる。
原田 哲也
1988年から全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦。1992年には250ccクラスチャンピオンを獲得し、1993年からヤマハワークスライダーとしてロードレース世界選手権に参戦する。
開幕戦のオーストラリアGPで初優勝を挙げると、日本GP、スペインGP、そして最終戦のFIM GPでも勝利しチャンピオンに輝いた。1997年にはアプリリアに移籍、1998年も最終戦の最終コーナーまでチャンピオンを争うが3位に終わる。
1999年は500ccクラスに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2021年から再び250ccクラスに戻り、ホンダの加藤大治郎と熱戦を繰り広げランキング2位を獲得。2002年は500ccクラスから名称を変更したMotoGPクラスにプラマック・ホンダから参戦。このシーズンを持ってロードレースからの引退を発表した。
ロードレース世界選手権での通算17勝、表彰台55回は日本人最多の記録となっている。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『 ホンダNRヒストリー ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ワイン・ガードナー』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
