1994年、原田哲也は250ccクラスでゼッケン1をつけて連覇をめざしたが、叶わなかった。

 開幕戦オーストラリアGPの予選初日に転倒して右手首を骨折し、その後もマシントラブルに見舞われ、結局一度も優勝することなく、ランキング7位でシーズンを終えた。1994年にチャンピオンになったのは前年ホンダに乗っていたマックス・ビアッジだった。

 タイトルを失っても、原田はさほど落胆しているようには見えなかった。自分の実力で負けたのではなく、マシントラブルで失ったレースが多かったので仕方がない、とさばさばしていたのだ。これは原田のメンタルが強いことの証明だったのである。

 翌1995年、原田はウエイン・レイニーのチームに加わった。

 レイニーは1990〜92年と3年連続500cc世界チャンピオンになったアメリカ人ライダーで、4連覇をめざしていた1993年のイタリアGPで転倒し、下半身不随になって引退したが、翌94年にはチーム監督としてGPに戻ってきた。

 原田はライダーとしてのレイニーを尊敬していた。何かトラブルがあっても決して言い訳せずに自分の力で何とかして勝とうとする姿勢が自分の戦い方と同じだと見ていたのだ。

 またレイニーの方も原田のことを高く評価していた。

「原田のデディケーション(打ち込む姿勢)は僕とよく似ている」とレイニーは1995年のシーズン開幕前に語った。これは最高の賛辞だった。

 そんなレイニーに「95年に原田はチャンピオンを取れるか?」と尋ねてみた。

「原田ならできると思うが、そのためにはヤマハ側が最大のサポートをしなくてはいけない。でも原田は250ccライダーの中ではベストだよ」

 前日、私は原田に監督としてのレイニーはどうか?と尋ねている。

 原田は「レイニーさんは自分の意見をおしつけてこないところがいいですね」と答えた。そのことをレイニーに伝えると、彼は嬉しそうにこう答えた。

「そう、僕はまだレーサーなんだ。原田もその方がやりやすいだろう。僕はあまり多くを語らずに考えるヒントを与えるだけにしている」

 1995年、原田哲也はビアッジに次いでランキング2位でシーズンを終えた。優勝したのはスペインGPの1回だけだったが、ダッチTT以外のすべてのレースで5位以内に入っていた。

 しかし、ビアッジの乗るアプリリアと原田の駆るヤマハとの差は歴然としており、シーズン終盤のアルゼンチンGPで原田は0.1秒という僅差でビアッジに競り負けた。

 その時のレース後のインタビューで原田が語った『ビアッジに負けたのではありません。アプリリアに負けたんです』という台詞は名言として残されている。

 1996年、原田哲也はウエイン・レイニーのチームで2年目のシーズンを迎えた。本来だったら信頼関係も深まり、一丸となって“打倒ビアッジ”を目指したシーズン。しかし、現実は予想とは反対の結果となってしまった。

 当時はまだタイヤは今のようにワンメイクではなく、各チームが選択することになっていた。多くの500ccチームがミシュランを選択しており、1996年から500ccクラスにも参戦するようになったチーム・レイニー(ライダーはカピロッシ)はミシュランと契約。それまでダンロップを使ってきた250ccクラスの原田もミシュランを使うことになった。

ミシュランとダンロップではまったく特性が異なっていた。ミシュランは終盤の耐久性に優れていたが、序盤の数周に関してグリップが不足していた。しかし、ライダーに序盤は抑えていけというのは当然無理な話だったのである。

1996年開幕戦マレーシアGPではビアッジに続いて2位に入り、第2戦インドネシアGPで優勝した原田は第3戦日本GPで転倒。その後ヨーロッパへ移動してからも成績が上がらなかった。

 その直後、原田はタイヤをダンロップに変えたいとレイニーに直訴したが認められなかった。

 レイニー自身は現役時代にフレームをワークスマシンのものからROC(コンストラクター)のものへと変えていた。勝つためにはベストな装備を求めていく。だからこそ原田はレイニーならば自分の気持ちを理解してくれるだろう、と期待していた。

 しかし、レイニーが原田の要望を却下したため、ふたりの関係は悪化。ピット内でも口をきかないほどになっていた。

 原田は9月初めのイモラGPを最後に3戦を残して1996年シーズンを終えた。ちまたでは、レイニーが原田に愛想をつかして首にしたという噂も出ていたが、原田は取材には一切答えず、帰国した。

 そして、翌1997年からアプリリアのワークスライダーとなった。

原田 哲也

 1988年から全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦。1992年には250ccクラスチャンピオンを獲得し、1993年からヤマハワークスライダーとしてロードレース世界選手権に参戦する。
 開幕戦のオーストラリアGPで初優勝を挙げると、日本GP、スペインGP、そして最終戦のFIM GPでも勝利しチャンピオンに輝いた。1997年にはアプリリアに移籍、1998年も最終戦の最終コーナーまでチャンピオンを争うが3位に終わる。
 1999年は500ccクラスに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2001年から再び250ccクラスに戻り、ホンダの加藤大治郎と熱戦を繰り広げランキング2位を獲得。2002年は500ccクラスから名称を変更したMotoGPクラスにプラマック・ホンダから参戦。このシーズンを持ってロードレースからの引退を発表した。
 ロードレース世界選手権での通算17勝、表彰台55回は日本人最多の記録となっている。

著者:富樫ヨーコ

 日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。

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