アプリリアは原田に対して1999年から10年契約してくれと提案した。しかし、原田はその提案を断って3年契約にしてもらった。
10年後もレースをやっているとは考えられなかったからだ。契約金は推定年間4億円と破格のものだった。
1999年に原田はアプリリアが新たに投入した2ストロークRSW-2に乗って500ccクラスに参戦した。優勝こそなかったがフランスGPとイギリスGPで表彰台に上がっている。
しかし、翌2000年には一度も表彰台に上がれず500ccクラスランキング16位に終わった。その後、アプリリアが4ストロークマシンの開発に着手するためRSW-2の開発を中止したので、原田は2001年には再び250ccに戻り、ホンダの加藤大治郎と素晴らしい戦いを繰り広げた。
16戦中、加藤11勝、原田3勝で、加藤がチャンピオンになったのだ。
■大ちゃんは天才だった
2001年に250ccクラスで競い合った加藤大治郎のことを尋ねると、原田哲也は「大ちゃんは本当に天才でしたね。2001年に一緒にレースをしていていつもクリーンでした。今のライダーとは違いますね」とポツリと語った。
2002年原田哲也はホンダNSR500(2ストローク)に乗ってMotoGPクラスに参戦したが、トップ10に入ることなくシーズンを終えた。4ストロークと2ストロークの混走になったこの年は、圧倒的に4ストローク勢が優位だったのだ。
結局原田は2002年一杯で引退した。大きな怪我をして引退したのではなく、どこかのチームと不仲になって辞めたのでもない潔い引退だった。
最終戦バレンシアGPの時にHRCの担当者に引退することを告げた原田。強いて言えば、以前痛めた腰の痛みがどんどんひどくなっていたことが引退の要因だった。また、これ以上大きな怪我をしたくないと考えたことも要因のひとつだった。
2003年の開幕戦、日本GP開催時に原田は鈴鹿サーキットではなくモナコの自宅にいた。
現役だったら自分が出ていたはずのMotoGPのレースで加藤大治郎が転倒。ヘリコプターで四日市の病院へ運ばれていくのを見て、加藤の無事を遠く離れたモナコから祈っていた原田。しかし、原田や大勢の仲間の祈りは届かず、加藤は事故から2週間後に脳幹梗塞のため逝去した。
■2026年の鈴鹿8耐
世界グランプリで通算17勝を挙げた原田だが、現在のMotoGPをどう見ているのだろうか。
「汚いというか、僕らの頃は今みたいにコーナーのエントリーで無理やり入ってこなかった。今はレースいうよりは格闘技になっていますね。(マルク)マルケスが出てきてから変わってしまった。同じ連続チャンピオンでもミック(ドゥーハン)なんかはいつもクリーンでしたね」
世界グランプリに参戦していたライダーは、引退後四輪のレースに出場したり、母国でテレビのコメンテーターを務めている者が多いが、原田の場合、引退後ほとんどまったく表に登場しなくなっていた。
そんな原田が2019年からNCXX Racing withe Riders Clubの監督として鈴鹿8耐のSSTクラス(メインのEWCクラスと比べて改造範囲などの規則が厳しい)に参戦し、2023年にはクラス優勝を果たした。
「僕は自分が鈴鹿8耐に出たことがないので、最初にオファーをいただいた時にはお断りしました。でも、どうしてもと再度依頼されたのでお受けしたんです。僕が教えられることは、レースへの取り組み方とか考え方です。8耐とスプリントのレースはまったく違いますからね。ライダーたちは僕が走っている姿を見たことがないくらい若くて彼らの父親の方が僕のことをよく知っているんですよ」
そして、2026年の鈴鹿8耐では、長島哲太が原田のチームで走ることになった。
Moto2クラスで優勝経験もあり、2022-2023年に鈴鹿8耐EWCクラスで連覇した長島哲太。負けん気の強さでは原田に近いものがあると私は見ている。
「長島君は二年連続して鈴鹿8耐で勝っているし、全日本のJSB1000クラスでもトップ争いをするような優秀なライダーなので期待しています。うちは今までヤマハのマシンを走らせていましたが、今年はホンダに変えました。あとSSTクラスはタイヤがダンロップのワンメークなのですが、長島君はずっとダンロップの開発を手掛けているので有利だと思います」
「当然狙っているのはクラス優勝です。あとトップ10トライアルにも出て、いいタイムを出して欲しいですね」
2021年からライダースクラブ誌のエクゼクティブアドバイザーを務めている原田は、2025年の9月に同誌の編集長に就任し、ニューモデルの試乗会やツーリングにも参加している。モナコの自宅からオンラインで編集会議に参加している原田だが、それでも来日する機会も多く多忙な日々を送っているのだ。
「僕ももう56歳になりました。ふたりの娘は20歳と17歳です」と語る原田は、1997年に阿部美由希と結婚した。
1993年に原田が世界チャンピオンになった時にも横で原田のことを支えていた美由希は、すでに日本に住む年数よりも海外で暮らす年数の方が長いのだという。
そう、原田哲也が世界GPの250ccチャンピオンになったあの日から、すでに33年の歳月が流れたのだ。
原田 哲也
1988年から全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦。1992年には250ccクラスチャンピオンを獲得し、1993年からヤマハワークスライダーとしてロードレース世界選手権に参戦する。
開幕戦のオーストラリアGPで初優勝を挙げると、日本GP、スペインGP、そして最終戦のFIM GPでも勝利しチャンピオンに輝いた。1997年にはアプリリアに移籍、1998年も最終戦の最終コーナーまでチャンピオンを争うが3位に終わる。
1999年は500ccクラスに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2001年から再び250ccクラスに戻り、ホンダの加藤大治郎と熱戦を繰り広げランキング2位を獲得。2002年は500ccクラスから名称を変更したMotoGPクラスにプラマック・ホンダから参戦。このシーズンを持ってロードレースからの引退を発表した。
ロードレース世界選手権での通算17勝、表彰台55回は日本人最多の記録となっている。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
