マン島でのホンダの存在は評判となった。なぜならヨーロッパのバイクレーサーたちは日本製のバイクなどそれまでに見たことがなかったからだ。一部のファンはホンダのグランプリバイクへの初の試みに納得していなかった。ホンダのバイクは2気筒4ストロークで18馬力を生み出し、トップスピードは約時速180km/110マイルだった。
しかしながら、ホンダのデビューレースにおけるパフォーマンスは、自分たちが何をしているのかを分かっていることを周囲に示した。谷口尚己が6位、鈴木義一が7位、田中楨助が8位、鈴木淳三が11位でフィニッシュしたのだ。新進気鋭のオーストラリア出身のグランプリライダーだったトム・フィリスは、その様子を見ていたひとりだったが、チームの綿密かつ高い効率性に感銘を受け、1960年シーズンのシートを求める手紙をホンダに書いている。
翌春のフィリスはホンダ初の外国人世界選手権ライダーとなった。フィリスはホンダのマシンが遂げた進歩に驚かされた。8月に初めてフィリスは世界選手権の表彰台を獲得した。4気筒250ccのRC161に乗り、アルスターGPで2位につけたのだ。その2週間前、西ドイツGPでやはりRC161に乗った田中健二郎が、ホンダ初の表彰台を飾り、歴史を作っていた。
ホンダの急速な進歩は1961年も続き、フィリスはホンダにとっての初めてのグランプリ優勝を、シーズン開幕戦のスペインGPの125ccクラスで飾った。3週間後、高橋国光は250ccクラスでのホンダ初優勝をホッケンハイムで達成した。
ホンダは世界クラスのレース参戦は2シーズン目ながらも、両クラスを圧倒した。1961年9月、本田氏とさち夫人はスウェーデンに飛んだ。そこでマイク・ヘイルウッドが250ccクラスでホンダに初の世界選手権タイトルをもたらすところを目にすることになった。その4週間後、フィリスはアルゼンチンで125ccクラスのタイトルを獲得した。ホンダはまた、両カテゴリーで初めてコンストラクターズタイトルを獲得することができた。
この瞬間から、ホンダはグランプリレースにおける支配的勢力になったのだ。その後の6シーズンでは、ホンダの4ストロークとライバルの2ストロークマシンとの目を見張るような戦いが繰り広げられた。この技術面でのレースは、レーストラックを美しく飾るような、これまでにない最も素晴らしいバイクを作り出すことになった。ホンダの6気筒250cc、5気筒125cc、2気筒50ccマシンである。
ホンダは常にレースは実践の場での実験室だと考えており、1960年代は比較的レース経験が浅かったホンダにとってまさにそのような状態にあった。これら3台のマシンの技術上のコンセプトは同じだ。ホンダは2ストロークのマシンを打ち負かすために、回転数の増加を必要としていた。そこでエンジニアたちはエンジンストロークを短くし、シリンダー数を増やして回転数を増やしたのだ。同時に彼らは1シリンダーあたり4つのバルブを使用した。それらは拡大されたボアにぴったり合った。また小型バルブが軽量化されたことで、高回転時のバルブの問題も解決された。ホンダは強力なエンジンデザインを考えついたのだ。
(後編に続く)