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F1 ニュース

投稿日: 2016.08.18 17:09
更新日: 2016.08.18 17:47

【夏休み特別企画】2000年以降のF1ベストシーズン(1)

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F1 | 【夏休み特別企画】2000年以降のF1ベストシーズン(1)

2003年:予選方式とポイントシステムに大幅な変更

 2002年、フェラーリが圧倒的な力を誇示し、シーズンを支配したことを受けたFIAは、大幅なレギュレーション変更を行った。最も大きな変更は、1時間のうち、12周の走行が許されていた従来までの予選セッションを、1周のタイムアタックにより順位を決定するワンショット方式へ変更したことだろう。

 このレギュレーションは、金曜日と土曜日に1回ずつアタックを行い、金曜のアタックで土曜の予選の出走順を決定し、土曜のアタックで決勝レースのグリッドを決定するというものであった。

給油を禁じるため、予選後のマシンはパルクフェルメに保管されていた
給油を禁じるため、予選後のマシンはパルクフェルメに保管されていた

 また、予選で搭載した燃料のまま、決勝レースをスタートするレギュレーションを利用するチームやドライバーが目立ち始めた最初のシーズンとなり、第2戦のマレーシアGPでは、ルノーのフェルナンド・アロンソとヤルノ・トゥルーリがフロントロウを独占した。

この年はルノーが躍進。22歳のアロンソが当時の史上最年長優勝記録を更新
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 ポイントシステムに関しても1991年以来の変更となり、トップ6のドライバーに与えられていたポイントがトップ8のドライバーにまで付与されるようになった。それに伴い、1位と2位のドライバーに与えられるポイント差が2ポイントに縮まったことで、ミハエル・シューマッハーの独走に歯止めをかける一定の成果をもたらした。

 これらのレギュレーション変更にもかかわらず、ミハエルは自身6度目のタイトルを獲得してみせた。とはいえ、2002年シーズンは7月に決定していたチャンピオン争いは最終戦まで持ち越され、マクラーレンに所属する若きキミ・ライコネンを2ポイント差で下してのタイトル獲得であった。

最終戦までミハエルとチャンピオンを争ったライコネン
最終戦までミハエルとチャンピオンを争ったライコネン

ファン・パブロ・モントーヤとラルフ・シューマッハーのチームメイト対決も注目された
ファン・パブロ・モントーヤとラルフ・シューマッハーのチームメイト対決も注目された

 2003年シーズンは8名の勝者を生み(前年の2002年はフェラーリが17戦中15勝を記録した)ミハエル・シューマッハー、キミ・ライコネン、ファン・パブロ・モントーヤの3名のチャンピオン争いを演出する結果となった。

 改定されたポイントシステムが接戦のタイトル争いをもたらしたものの、シーズン後半戦、FIAの指示によりミシュランがタイヤ構造の変更を強いられたため、結果的にチャンピオンの座は、シーズン最多の6勝を記録したミハエル・シューマッハーのものとなった。

最終戦の日本グランプリには佐藤琢磨が緊急参戦。果敢な走りを見せ6位入賞
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フォーミュラ・ニッポン王者の本山哲はルノーを駆りF1テストに挑んだ
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 予選方式やポイントシステムの大幅な変更の一方、マシンに関するレギュレーションに大きな変更はなく、マクラーレンは2003年シーズン途中に投入を予定していた悪名高いMP4-18を使うことなく、前年の改良型であるMP4-17Dでシーズン最終戦まで戦った。

2003年に投入予定だったマクラーレンMP4-18。日の目を見ることなくお蔵入りに
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この記事は国内独占契約により英 AUTOSPORT.com 提供の情報をもとに作成しています

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