ドライバーは、その走りに全存在を賭ける。見つめる私たちは、まずコース上で光る個性に惹かれ、戦いの合間に見せる表情やレースについて語る言葉の隙間に、その人らしさを発見する。知れば知るほど、ますます好きになり、応援する楽しみも増えるはずだ。この新連載では、F1ドライバーたちの小さな物語が綴られる。第1回は、先月この世を去ったジュール・ビアンキ。彼にまつわるエピソードは、彼らを襲った出来事によって、大きな意味を持ちすぎてしまったかもしれない。それでも、あまりに早くいなくなってしまったビアンキの素顔を、静かに伝えてくれる気がする。
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「当時の僕にとって、本当に夢のような経験だった」
ミハエル・シューマッハーとふたりきりで走った幼い頃の思い出を訊ねると、ジュール・ビアンキは静かな口調で、懐かしそうに瞳を輝かせながら、11歳の初夏のエピソードを語りはじめた。
「2001年、モナコGP直前のことだった。両親が突然、学校まで僕を迎えに来たんだ。先生は『すぐにご両親と一緒に帰りなさい』と言う。パパも理由は何も説明してくれない。僕をびっくりさせようと黙ってたんだね」
南仏のブリニョル──両親が所有するカートコースに到着してジュールが目にしたのは、憧れのチャンピオンが、ひとりカートを楽しむ姿だった。
「ミハエルはカートで走るのが大好きだったから。モナコGPの前で、きっとブリニョルから遠くないところにいたんだと思う。それで近くに走れるコースがないか探して、たまたま両親のカートコースに来たんだと思うよ。予約だとか、入っていたわけじゃなかったから」
父フィリップさん、母クリスチーヌさんにとっても、それは大きなサプライズ。カートレースを始めたばかりの息子にとって、ミハエル・シューマッハーは最も尊敬する憧れのドライバーだったから──小学生のジュールは、まだF1を夢見ることすら知らない、純粋にカートを楽しむ少年だった。それでも「最初からずっと」シューマッハーのファンだった。
「なぜかって言うと、単純に、完璧なドライバーだったから。すべてにおいて最大限を尽くす、お手本のような存在だった」
そんなヒーローが、我が家のコースに舞い降りた。少し離れたところからすべての神経を集中してチャンピオンを見守り、それから自分のカートを探しに行き、控え目に一緒に走り始めた小さなビアンキの姿が目に浮かぶ。シューマッハーは、とても優しかった。サインも貰った──。
そんな微笑ましいエピソードのなかで、いちばん胸に残ったのはジュールが最後に口にした、こんな言葉だった。
「友達には、すぐには話さなかったよ。しばらく経ってから、少しだけ(笑)」
F1にデビューしてからも、彼のこんな特質は、まわりのみんなを惹きつけた。コース上で見せる煌めくような才能、狙いを定めたときの攻撃性と、ふだんの控え目な様子が見事なコントラストを成していたからだ。
「僕の祖父マウロと、大叔父にあたるルシアン・ビアンキは、60年代の偉大なドライバーだったから、僕にとってビアンキ家を“引き継ぐ”というのはある意味、特別なことだった。うちにはコンペティションの精神があふれていたから」
古き良き時代のドライバーらしく、兄ルシアンも弟マウロも、スプリントから耐久レース、サーキットレースからラリーまで、さまざまなカテゴリーで活躍した。しかし1968年のル・マン24時間ではフォードGT40を駆るルシアンが勝利を飾る一方で、マウロのアルピーヌA220がゴールまで4時間のところでクラッシュして炎に包まれた。大やけどを負いながらも九死に一生を得たマウロは翌年もレースを続けるが、1969年3月末、ル・マン24時間に向けたテストでルシアンのアルファロメオ33にトラブルが発生。ルシアンは帰らぬ人となり、アルピーヌでテストに参加していたマウロは、その場で引退を決意した。
サラブレッドの家系が背負った重い運命を、ジュールが口にすることはなかった。ただ「パパはカートコースを所有していても、一度たりともレーシングドライバーではなかったよ」とだけ言った。ビアンキ家が再びレーシングドライバーを生み出すまで、ふたつの世代が必要だったのだ。
大叔父ルシアンは、わずか17回のグランプリ出場において1968年のモナコGPで3位という経験を持つが、ジュールは恵まれた二世ドライバーでも三世ドライバーでもなかった。フェラーリ・ドライバー・アカデミーの設立と同時に抜擢され、2012年にはフォース・インディアのリザーブドライバーを務めても、資金的に大きなバックアップを得ていたわけではなかった。2013年シーズンの開幕前、フォース・インディアがエイドリアン・スーティルを選択した直後、小さなマルシャ・チームにビアンキのシートを確保したのは、フェラーリ、FFSA(フランス・モータースポーツ連盟)、マネージャーのニコラス・トッドの連携による資金だった。
2013年シーズン開幕前のオフを「キャリアのなかで、いちばん困難な時期だった」とビアンキは言った。
「冬の間ずっとポジティブな返答を待ちながらも先のことがわからなくて、最終的にはエイドリアンが選ばれて……ショックは受けなかったけれど、とてもがっかりした。でも、そういうことなんだと。僕は“すべてが終わったわけじゃない”と自分に言い聞かせ、あきらめないでトレーニングを続けていた。その後、フェラーリやFFSAのおかげで比較的早くマルシャ決定のニュースが届いて、そこからは頭を切り替えることができた」
見事だったのは、その切り替えの速さだ。マルシャでわずか1日半のテストを行っただけでデビューレースに挑んだとき、彼は晴れ晴れとした表情で「マルシャは運転のしやすいマシンだ」と言った。その言葉を証明するように、開幕3戦で“将来のフェラーリドライバー”を印象づけた。GP2時代には、はやる気持ちを抑え切れずにミスを犯すこともあったが、F1というステージに上がると、そんな不安定さも消えていた。フェラーリ入りの噂にも、あえて耳を貸さないようにしているのだと言った。
「僕はこのチームに集中したい。マシンを速くするためチームと一緒に努力をして、一緒に成長したい」
2014年の日本GPまで、ビアンキのこの姿勢は変わらなかった。フェラーリへの希望は常に彼の胸にあったが、その可能性に心を囚われることなく、手にしたマシンで、とことんまでベストを尽くした。かすかなチャンスが現れれば必ずつかもうと神経を集中していた。その真摯な姿勢とオープンな性格、静かながら確固とした闘志でチームを魅了し、マルシャのガレージに明るさをもたらした。2014年モナコGPの9位入賞は、ジュール・ビアンキのドライビング能力、集中力、攻撃性、レース管理能力を示すうえで象徴的だったけれど──1年と10カ月で、わずか一度の入賞だったと思えないほど、たくさんの華やかなシーンが胸に浮かぶ。けっしてあきらめない姿勢によって、まわりを変えてしまう力を持ったドライバーだった。
「いつもそうしてきたように、ジュールは最後まで戦い続けました」
訃報を伝える家族のコメントが心の奥まで届くと──実際に目にしたわけではないのに──柔らかな南仏の陽光に包まれて、ブリニョルのサーキットを走る幸福なジュールの姿が浮かび上がった。彼がみんなに愛されたのは、幸せを伝えることができる人間であったからだとも思う。最後まであきらめないファイターは、9カ月ものあいだ戦うことによって、ドライバー仲間たちに勇気を残した。哀しみだけでなく、レースすることの喜び、感謝、すべてに対する敬意を再認識する機会を与えた。
みんなが、ジュールに捧げるグランプリを戦った──2015年ハンガリーGPも、ビアンキというドライバーを象徴するレースであったと思う。