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MotoGP ニュース

投稿日: 2020.05.18 11:00
更新日: 2020.05.14 21:49

MotoGP:ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」/転がるタイヤ(後編)

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MotoGP | MotoGP:ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」/転がるタイヤ(後編)

 2007年はのちにリーマンショックと呼ばれる金融恐慌の兆しが見えており、経費削減という観点での施策としては誠に時宜を得ていた。この提案を計画したミシュランの二輪モータースポーツ部門のボスはそれまでの功績が評価されて然るべき次のポストが用意されており、筆者の「ご栄転ですね」の言葉に彼は駐在中に覚えたと思われる流暢な日本語で「美味しい」とニヤッと笑いながら答えたのをいまでも思い出す。

 さて、2008年になってブリヂストンという武器を得たロッシ選手の復活劇は見事なもので、USGPから破竹の5連勝で年間チャンピオンに返り咲いた。しかしチャンピオンが決まった日本GPのパドックでは密かに来季の準備が進められていたのだ。それはF1ではすでに前年から始まっていたブリヂストンの1社供給体制と同じ仕組みがMotoGPにも導入されるというものだった。

 思い返せば2005年のF1インディアナポリスGPにおけるミシュラン・ユーザーの一斉リタイアは衝撃的であり、その時点でミシュランのモータースポーツ界における劣勢は明らかだった。

 F1にならって表向きは入札で決めるとアナウンスされていたが、MotoGPのワンメイクタイヤにも水面下ではプロモーターのドルナ社とブリヂストンとのあいだで何らかの合意形成がされていたとみるべきだろう。

 結局ミシュランは入札をしないままブリヂストンの1社供給に決定したのだが、そこに至るまでは支援を取り付けるためにミシュランの幹部がパドックを奔走していた。

 筆者のところにも件の栄転したボスの後継者が支援要請に訪ねて来たのだが、「私は化学畑の人間だから、ボスの指示に従ってどんな無茶な要求にも文句を言わず彼を支えて結果を出してきた。そしていよいよ私の出番だというときになって、私の昇るハシゴは彼の手によって外されていたんですよ」と涙ながらに語る彼に掛ける慰めの言葉はついに見つからずじまいだった。

 F1に続いて居場所を失ったミシュランは、その後、二輪においては耐久レースにわずかな活路を見出し開発を継続。かつてのライバル、ブリヂストンに代わってMotoGPのオフィシャルタイヤサプライヤーとして復帰するのは2016年のことで、実に7年の歳月が経過していた。

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キタさん:(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。
2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。

※YMR(Yamaha Motor Racing)はMotoGPのレース運営を行うイタリアの現地法人。


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