かかさずF1を見ていても、ドライバーの素顔に触れる機会は驚くほど少ない。マシンに乗り込むまでの短い時間と中継で流れる無線の会話が手がかりで、あとは雑誌やニュース記事で伝えられる言葉から、想像をふくらませるしかない。2014年に19歳でF1デビュー、初戦で当時の史上最年少入賞記録を更新したダニール・クビアトのことを、どれくらい知っているだろうか。みるみる大きくなっていく彼について、ひとつひとつは小さなエピソードから、誰にも似ていない独特の個性を感じてほしい。
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子供の頃に憧れたドライバーを訊ねると、即座に「ミハエル・シューマッハー!」という答えが返ってきた。
「カートで走り始めた9歳のときから。子供だったから、特に印象的に残ったんだと思う。赤いマシンに乗って、いつも優勝していて、アプローチも何もかも、まるで映画のなかのスーパーヒーローみたいだった。子供ってスーパーヒーローが大好きでしょ? 幼い頃の僕にとってミハエル・シューマッハーはF1に乗ったスーパーマンみたいな存在だったんだ」
とても素直に子供の頃の憧れを説明したあとで「いまでも」と、つけ加えた。
ダニール・クビアトの言葉は、こんなふうにストレートで、理屈めいたところが一切なく、それでもかなり頻繁に、軽く、心の扉を“トントン”とノックしてくる。
2014年のオーストラリアGPでF1にデビューして以来、若さを取り沙汰されるたび「レースなら自分はずっと前から経験している」と答えてきた。「F1は視線を集める世界だし、たくさんの人が働いている。でも僕にとって“マシンを操縦する”という意味で、これまでのカテゴリーと、そんなに大きくは違わないと思う」とも言った。それは決して彼が尊大だからではなく、若さや経験不足という言い訳を自分に許していないからだ。
「僕は結構長くレースをしてきたから。F1というカテゴリーで、トップチームのひとつで走れるというのは本当に大きなチャンスだし、ある意味、重い挑戦でもあると思う。でもレースを初めて以来……ここ6〜7年は特に、毎年すべての瞬間が僕にとって正念場だった。そこにいるに相応しいドライバーだということを証明しなくてはならなかったし、常に100%の力で仕事をして、どんなチャンスも逃さないよう努めることが必須だった。その意味では、レッドブルでの挑戦が、これまでとまったく違うものだとは思わない」
強気に響く発言も、クビアトにしてみれば、ごく正直なもの──話題を少し変えると、無邪気な返答にもなる。初めての日本GPを前に鈴鹿のイメージを訊ねた時には「高速コーナーと寿司があるから素敵なところに違いない」と、普通の口調で言った。
生まれはウラル山脈の麓、ウファ。父の仕事の関係で子供の頃にモスクワへ引っ越し、カートを始めてからはレースのためにイタリアに移り住んだ。ドライバーとしてはイタリア育ちと言っていい。父親がモスクワとローマをベースに仕事をしていたのは幸運──でも「レース経験を積み、ドライバーとして成長していくために」イタリアを選んだのは12歳のダニール自身だった。走るために母国を離れて、学業もイタリアで続けた。
そんなドライバーが2014年、トロロッソからF1デビューを果たした。
「トロロッソで、僕は素晴らしい経験を積むことができた。チームは可能なかぎり、すべてのものを僕に与えてくれた。そして何より、僕は本当に最高の人たちに囲まれていた──彼らは本物のプロで、僕が何をしているか理解していたし、多くのアドバイスを与えてくれた。いつの日か、また一緒に組んでレースできたら……」
レッドブルとトロロッソの関係を考えて慎重に言葉を選びながら、彼はトロロッソへの感謝と愛着を語った。とりわけ担当エンジニアのマルコ・マタッサとの名コンビぶりはチームラジオからも十分に伝わる──「Mate」とエンジニアが話しかけるときには、必ずドライバーへの吉報が続いた。「Mate、9位だよ!」「信じられない!!!」「Q3があるから早く帰ってきなさい。一緒に準備を整えよう」というふうに。イタリア語で意思疎通できるふたりだけに「Mate」という英語にはユーモアと愛情と“共犯性”が含まれていた。
そんな環境で、負けん気の強さが表情に表れていても、クビアトは天真爛漫に映った。けれど何度もトラブルに泣いた1年目のF1が、つらくなかったわけはない。パワーユニットに関わるペナルティは最近になって論争を生んだが、2014年に最も多くのトラブルとペナルティに苦しんだのはクビアトだ。「右後ろが燃えてるから、マシンを止めて左側から降りて」──エンジニアが「Mate」と言えない状況のほうが、ずっと多かった。
「これって最終ラップだっけ?」とクビアトが訊ねる。「いや、あと2周だよ」──ゴールまで頑張れとマタッサが言う。これは高速のモンツァで、完全にブレーキを失っていたから。
「お願いだからピットに戻らせて。死にそうだ」とクビアトが懇願する。シンガポールでシートが過熱した上、ドリンクシステムのトラブルで脱水症状に陥っていたから。それでもエンジニアは励まし続けた。つらくても完走することがドライバーの将来に役立つと知っていたからだ。
「止まりたかったよ。でも続けなきゃいけなかったんだ」と、クビアトは笑った。
「あのレースで、僕は自分自身のことを学んだと思う。いままでのキャリアのなかで一番タフな経験だった。でも最悪だったわけじゃなくて、本当に勉強になるレースだった」
2015年、レッドブルに昇格してからもパワーユニットのペナルティとトラブルの受難は続いた。フリー走行で走れなければ、チームで2年目のダニエル・リカルドより“新入り”であるクビアトのハンデは大きかった。マシンが止まってしまう事態はドライバーにはどうしようもないのに「期待ほど速くないという見方をする人もいますが」と、結果だけを見て訳知り顔で質問してくるプレスにも辛抱強く答えなくてはならなかった。
「僕はいままでどおり──これからもずっと──100%の力を注いで仕事を続けていくだけだ。僕が何をしているか、選んでくれた人たちは理解していると思う」
だから、ハンガリーGPで初めての表彰台に上がったとき「ネバーギブアップの本当の意味を、僕は今日、学ぶことができた」と言ったクビアトの言葉が心に響いた。
「ネバーギブアップって口にする人は、それがどういうことかわかってないんじゃないかと思ってた。僕も、今日までは本当の意味をわかってなかったと思う」
あきらめたことは一度もなかったけれど、それが成績につながったのはハンガリーGPが初めてのことだったから──。
ダニール・クビアトというドライバーの魅力は、生まれながらの才能に導かれた本能的なドライビングにある。だから、昨年は初めてのコースでも把握するまで時間がかからなかった。おごることなく、F1ならそれが当たり前だと思っている。ウエット路面のスパ・フランコルシャンの高速コーナーでも──たとえばプーオンの入口で──思い切り良くステアする様子は迫力満点。マシンが自らの手から離れても“取り戻す”技術を備えている。ぎりぎりのところでコントロールを取り戻すと、最高のフィーリングだと笑う。
「僕の運転が見ていて楽しいって言われると、すごくうれしい。でも、他のドライバーのオンボード映像を見ていても、みんなそれぞれ、どこかに自分のスタイル、マシンに対するそれぞれのリファレンスを持っていて最大限の速さを引き出していると感じる。だから、これはとてもハイレベルなスポーツだよね」
9歳のときからずっと、シューマッハーはスーパーヒーロー。いま一緒に走るドライバーにはサーキットを共有し、レースを共有する仲間としての敬意がある。「たくさんのことを達成しているんだから、僕のほうから感じている敬意はとても大きいよ、もちろん」と言う。負けん気が強くても、尊大ではない。学ぶ姿勢は真摯でも、コンプレックスはない。才能に支えられた人間性は、とても爽快だ。
いつか、チャンピオンになる。そのために、ここで走っている──クビアトが口にすると、何の装飾もない、そんな言葉がストンと心に落ちてきた。