ワイン・ガードナーは1959年10月11日にオーストラリア・シドニー近郊のウーロンゴングで生まれた。13歳の時に芝刈り機のエンジンを積んだゴーカートを父に作ってもらったという彼にとって初めてのレースはヤマハGTMX80で出場したダートの親子レースだった。
息子が3周走ったのちに父親が3周走ってまた息子が3周走るというこのレースで、初めてオートバイに乗ったガードナーの父は、息子に言われるままスロットルを全開にして暴走し、応援に来ていたお母さん数人をなぎ倒して転倒した。
勉強は嫌いで、時間さえあればオートバイに乗っていたガードナー。父はそんなガードナーを勉強させるため、バイクのリヤホイールを外して職場に持っていったという。
そんなガードナーは一時トライアルもやってみたが、スピードを競う方が自分に合っていると考えダートトラックレースに転向。さらにロードレースを始めた。1977年のことである。
その後、鉄パイプ製造会社で働くようになったガードナーだが、あくまでもレース中心の生活だったため、見習い期間が終わると同時にクビになった。それでもレースの方は順調で、さらに上をめざすためにレースの本場英国に6週間行って何でも見てこようと決めたのだった。のちに結婚するドナ・フォルブスと出会ったのもこの頃である。
■初めて世界GPを見る
英国にいた間、ガードナーは初めて世界グランプリを観ることになる。6月末にオランダのアッセンで行われたダッチTTを友人と一緒に観戦に行ったのだ。
地元オランダのジャック・ミドルブルグが500ccレースで優勝したこの時のダッチTTには20万人近くの観客が集まり、ミドルブルグが通過するとサーキットのその部分で大歓声があがっていた。ケニー・ロバーツやバリー・シーンといった有名ライダーの走りを間近で見られただけでガードナーは興奮し、自分も近い将来必ず世界グランプリで走ると硬く誓ったのだった。
■森脇との出会い
その後、オーストラリアに戻ったガードナーは、日本のコンストラクター森脇護が翌81年に英国で走らせるライダーを探しているという噂を聞きつけた。日本有数のチューナー、“ポップ吉村”こと吉村秀雄の娘婿に当たる森脇は78年と79年の鈴鹿8耐でニュージーランド人のグレーム・クロスビーを走らせていた。なんとしてでも森脇の目にとまり、ステップアップしていきたいとガードナーは考えていた。
メルボルンのサンダウン・サーキットで行われたスワンシリーズの最終戦は2ストロークレーサーと4ストロークマシンの混走だった。スーパーバイク仕様のホンダCB1100Rに乗ったガードナーは突然降り始めた雨の中で2位に入り、森脇護の目に止まった。その時のことを森脇はよく覚えている。
「2ストロークレーサーと比べるとずっと重いスーパーバイクでワインは走っていた。最初は後方だったけど、途中でスコールが来たらどんどん前に出て、結局2位になった。滑る路面でマシンをコントロールして走るライディングはすごいなと思いましたね。レース後に会って話をしたら、シャイで物静かな青年でした。
あの豪快な走りをするガードナーがシャイだというのは不思議に思うかもしれない。実際に私も一緒に仕事をしていて(私は通訳兼コーディネーターだった)、なぜこの人はここで引いてしまうのだろう、と疑問に思ったことが何度かあった。だが、そういう時は必ずガールフレンドのドナが後ろからはっぱをかけていたのだ。
メルボルンでの走りが認められて、ワイン・ガードナーは翌81年にモリワキから英国選手権のTTフォーミュラクラスに出場することになる。
ワイン・ガードナー
1977年に地元オーストラリアでキャリアをスタートし、1983年にロードレース世界GP(現:MotoGP)500ccクラスにデビューし、1986年スペインGPで初勝利。翌年はロスマンズ・ホンダのエースライダーとして強さを発揮し、年間7勝を挙げてオーストラリア人初の世界王者に輝いた。鈴鹿8時間耐久ロードレースにもホンダから参戦し、1985、86、91、92年で勝利を飾っている。1992年に二輪レースから引退し、四輪レースに転向。オーストラリアV8スーパーカーシリーズや全日本GT選手権(現:スーパGT)でも活躍を見せた。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
