ジョーダン・グランプリは1991年に最初のF1マシンを作った。エディの少数精鋭のチームは、あの『191』で衝撃的なデビューを果たし、同年の世界選手権を5位で終えた。

「私の夢が一気に叶った。F1で仕事をすることが子供の頃からのただひとつの夢だったんだ。幸いなことにハードワークとエディの野心のおかげで、私は予想していたよりもずっと早くそこに到達できた。その夢を素晴らしいチームと共に実現できたのは、本当に幸運だった」

「仕事はタフだったが苦にはならなかった。楽しみながら、情熱を注いでやっていたからね。エディは競争心のある者しか雇わなかった。何をするにせよ、競争心を持って取り組めば、より多くを求められるほど、その挑戦を楽しめるようになる」

 このチームをめぐる同年最大の話題は、ミハエル・シューマッハーがスパ・フランコルシャンでデビューし、すぐにベネトンへ移籍したことだった。

「何が起きたかはご存知のとおりで、仕方のないことだった。このスポーツ全体のためには良かったんじゃないかな(笑)。1992年は私たちにとって実りの多い年ではなかったし、実際のところものすごく厳しいシーズンだった。だが、それでもどうにか戦い抜いて、最終戦のアデレードでは選手権ポイントを獲った。それが私たちの戦い方だった。つまり、決してあきらめないということだ」

 1990年代半ばになると、チームは徐々にではあるが危機的な財政状況から抜け出し始める。

「チームとして大きく成長し、安定し、成熟し、独り立ちできるようになった。1991年が紛れ当たりのシーズンだったとは思わない。だが、あのクルマの出来の良さは、自分たちで思っていた以上だったのかもしれない」

「それゆえに2年目からは、他のチームがもう私たちをニューカマーとは見なさなくなった。私たちの存在を脅威と感じ、おそらくは新参者に負けないようにと彼らが少し余計に努力をしたために、戦いは厳しくなり始めた。あの時期、とくにエディとロン・デニスの間では、いざこざが絶えなかった」

「最初はF1の仲間たちに温かく迎えられた。ところが、私たちが既存の秩序を揺るがし始めると、だんだんと風当たりが強くなっていった。エディがチームを率いている限り、私たちにはそういう取り組み方、つまり既存のチームに真正面から立ち向かうような戦い方しかできなかった」

エディ・ジョーダンを最も知る“門下生”アンディ・スティーブンソンが見た真実のEJ。“我が古巣”へ最後のプレゼント
アンディ・スティーブンソン:1967年9月20日生まれ。イギリス出身。2025年現在、アストンマーティンF1のスポーティングディレクターを務める。メカニックしてしてEJRでF3とF3000を経験後、チームとともにF1へ。2005年にスポーティングディレクターに昇進。チーム名が何度変わろうと、“シルバーストン”チーム一筋のキャリア

 チームは1996年にベンソン&ヘッジスをメインスポンサーに迎え、財政的に安定しただけでなく、さらなるレベルアップを果たした。

「私たちはもう立派なグランプリチームで、相応の予算もあったが、それと同時にプレッシャーも高まった。当然のことながら、エディとしてはスポンサーを満足させるために、成績の水準をそれまでより大きく上げる必要に迫られた。スポンサーは私たちが結果を残すことを期待して、多額の資金を提供していたからだ」

 1998年の雨のスパ・フランコルシャンで、ジョーダン・グランプリは最良の日を迎えた。デイモン・ヒルとラルフ・シューマッハーが、強く人々の記憶に残るワン・ツー・フィニッシュを飾ったのである。

「予感はあったよ。あの年は素晴らしいシーズンではなかったが、シルバーストンのあたりでクルマにかなり大きなアップデートを入れていた。エディはチームが期待された成績をあげていないと考えていた。彼がスポンサーやパートナーからプレッシャーをかけられていたのは間違いない」

「エディはモナコで緊急会議を招集し、激しい言葉で私たちに奮起を促した。ここでもまた、彼は真のリーダーであることを自ら証明してみせた。主導権を取り、責任を引き受けて、私たちの仕事のやり方を変えさせたんだ。その結果、チームのパフォーマンスは上向き、数戦後にはポディウムや優勝を目指せるまでになった」

「1999年には選手権タイトル獲得の可能性も見えていた。これほどの短期間でここまで来るなんて、誰が予想しただろうか。2000年のクルマはとても速かったが、残念なことに信頼性が充分ではなかった。だから予選ではグリッド上位につけても、レースを完走できないことが多かった」

 その頃、チームは急速に規模を拡大していた。ただ、そのペースはやや速すぎたようで、エディはさまざまな問題への対応を迫られた。

「チームは徐々に大きくなり、組織も膨らんでいった。それに伴って、エゴの強い人間が何人か入り込んできたんだ。しかし、チームとして競争力を維持するには、規模を拡大するしかなかった」

「それまでと同じことをしていたら、立ち止まっていることになる。F1の世界では、立ち止まっていたら競争力を失い、取り残されていくだけだ。だから、チームを大きくしていく以外に道はなかった。だが、その過程でチームに加わった者の中には、自分がボスになりたがる高慢な人間もいた」

「エディはそれを決して許さなかった。チームが大きくなり、そういうタイプの人間が入ってくるにつれて、彼も自分の地位をしっかり守ることを学んだ。ここで名前をあげることはしないが、チームの支配権をめぐって争おうとした者が何人かいたんだ。私たちの目には、ボスである人物、この人のために働いていると言える人物はひとりだけだった」

 金融機関をスポンサーとすることに関して、エディはその先鞭をつけたチームオーナーのひとりでもあった。

「ウォーバーグ・ピンカスとの契約が大きな変化をもたらした。それ以降、チームは投資家に対して説明責任を負うことになったからだ。今ではごく当たり前になっているが、エディはそうした考え方を最初に取り入れたオーナーのひとりだった。彼には銀行に勤めた経験があったから、それが機能する仕組みを理解していたんだ」

「投資家を組み入れた体制を、彼はとても上手に構築したと思う。理事会があって、支援者たちに随時報告をするという、プロフェッショナルな運営をしていた。当時、他のチームはエディがいかに切れ者であるかを理解せず、見くびっていた。それがひいては彼らの弱みになったとも言える」

「エディは会社をどう経営するかを知っていて、資金の調達方法も知っていた。そこに強い競争心とモータースポーツへの情熱が加わっていたのだから、彼を過小評価するのは危険なことだった」

■別れの前に……

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