前回、WEC(世界耐久選手権)スパ6時間レースで負った怪我の治療にベルビエール(ベルギー)の病院に入院した中嶋一貴選手を見舞い、ドライバーの怪我に関してレポートした。その時には中嶋選手が負った脊椎の損傷は完治までに3カ月3はかかると悲観的なことを書いたが、ところがどっこいその中嶋選手が、週末のモナコePrixに現れて我々を驚かせた。
実は、我々が見舞った数日後、中嶋選手はニース(フランス)の病院に移って手術を受けた。脊椎の欠けた部分をセメントで補強するというもので、この手術が成功した翌日にはもう退院して普通に歩けるようになったのだという。そして、5月9日の土曜日、ニースからほど近いモナコにフォーミュラEレースを見学に来たのだ。
フォーミュラEレースには中嶋選手のWECトヨタチームの同僚であるセバスチャン・ブエミ、ステファン・サラザンが出場しているばかりか、マイク・コンウェイが公式コメンテーターとして働いていた。中嶋選手がそこに現れたのだから、みんな驚くことしきり。「えぇ〜、もう退院したのか?」「お前はロボットか?」といった歓迎の言葉がブエミやコンウェイから発せられ、中嶋選手は仲間の暖かい言葉に嬉しそうに応えていた。
それにしても現代の医療の進化は凄まじいものがある。中嶋選手の手術も注射器で患部にセメントを注入するというもので、傷跡は注射器の刺さった穴だけ。そして、手術の翌日には退院を勧められたそうだ。医者は、「週末のレースに出ても良いよ」と言ったとか。その医者の言葉を聞いて、諦めていたル・マン4時間レースへの出走も希望が見えてきた。モナコでフォーミュラEレースを見た翌日から、イタリアへ行ってリハビリ兼トレーニングを開始。ル・マンに関してはトヨタから欠場とも参加とも発表はない。事故の後だけに慎重な判断が必要だが、先日ACO(ル・マンの主催者)が発表した正式エントリーリストには中嶋選手の名前がデイビッドソン、ブエミと共にTS040 HYBRID#1号車に記されていた。出走は確実だろう。
ところで、その中嶋選手に初めて見たフォーミュラEレースの感想を聞いてみた。するとこんな言葉が返ってきた。
「凄く盛り上がっていますね。1日で練習走行から予選、決勝まで行うパッケージはいいアイデアだと思います。チームやドライバーは大変でしょうけど、お客さんは丸1日たっぷり楽しめていいんじゃないですかね。それに、雰囲気がF1と比べてオープンなのもいいですね。ドライバーも楽しんでいて、お客さんとの距離が近いのもいいですね」
「レースのスピードは遅いけど、結構激しい争いがあるので目が離せないですね。レースの内容は濃いです。ただ、モナコのコースはスタートライン辺りのコース幅がフォーミュラEにはやや広く感じます。音は静か。予選が始まっているときにここへ来たのですが、まだ走っていないのかと思いました。もう少し音があってもいいかな」
中嶋選手のフォーミュラEに対する感想は概ね好意的なものだった。1年目、まだ始まったばかりのシリーズがこれほど盛り上がっているとは予想していなかったようで、嬉しい驚きもあったと思う。加えて、トヨタ・レーシングの同僚ドライバーやアムリン・アグリの鈴木亜久里代表に会って、中嶋選手自身リフレッシュ出来たようだ。ブエミやサラザンがスパ6時間レースの翌週にモナコに来てフォーミュラEを戦う姿を見て、プロのドライバーが為すべき仕事とはこういうものだ、と感じたのかもしれない。自動車メーカーに大事にされ、参加するカテゴリーまで決められる日本のドライバーの自由のなさを痛く思ったかも知れない。この点に関しては聞きそびれたが、プロのレースドライバーが楽しみながら生活をすることとはどういうことか理解できたのではないだろうか。
すでに中嶋選手の公式Facebookにはイタリアでリハビリをしながらトレーニングをする姿が公表されている。その表情は明るく、1カ月後に迫った世紀の大勝負、ル・マンへの気合いが見て取れた。今月の末に行われるル・マン・テストデーは、自分自身のテストデーとも言えよう。
赤井邦彦(あかいくにひこ):世界中を縦横無尽に飛び回り、F1やWECを中心に取材するジャーナリスト。F1関連を中心に、自動車業界や航空業界などに関する著書多数。Twitter(@akaikunihiko)やFacebookを活用した、歯に衣着せぬ(本人曰く「歯に衣着せる」)物言いにも注目。2013年3月より本連載『エフワン見聞録』を開始。月2回の更新予定である。
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