1954年、本田宗一郎はホンダのバイクをマン島TTレースに参戦させ、優勝させると宣言した。当時、日本では工業化が非常に強く推し進められており、社会的に重要な変化の渦中にあったので、ホンダが国力を世界に知らしめることができたら、快挙となるはずだった。

 実際には、予想できたことだが、本田はレースの世界が予想よりもはるかに厳しいものであることにショックを受けた。他のバイクは非常に速く、ライバルのエンジニアたちは彼らのエンジンパワーが自分たちのエンジンの3分の1しかないことにすぐに気づいた。

1959年、世界グランプリに初参戦したホンダ・チーム
1959年、世界グランプリに初参戦したホンダ・チーム

 年を追うごとにプロジェクトは必要なペースでは進まず、物事は遅れていった。そのため1958年にホンダの日本人クルーがマン島TT(当時の世界選手権ラウンドだった)に送られた時、ヨーロッパのチームは彼らを笑いものにした。

 日本人エンジニアの一団は、パドックを歩き回り、すべてのものの写真を撮った。「旅行者のようだ」と多くの人々が思ったという。ホンダのクルーは確かにレースについてはあまり詳しくなかったが、彼らはエンジニアリングについての知識はあったのだ。

 だが最も重要なのは、彼らは成功するための正しい心構えを持っていたことだ。その旅ではふたつの重要な認識が得られた。まず、多くの写真を撮ったことが非常に役に立ったのだ。

 すべてのライバルチームのバイクと彼らの技術の詳細を写した写真(その時代、バイクにはサイドにカウルがなく、写真を撮るのが簡単だった)によって、エンジニアたちはすべてを学ぶことができた。また、実際にライバルのバイクを購入するということも行い、それは良いアイデアだった。

 そのため1958年中にホンダのスタッフはヨーロッパを周り、ノートン、BMW、MVアグスタ、NSU、ドゥカティといった当時の有力ブランドから見つけた最高のレーシングバイクを購入した。

 ヨーロッパのチームは、ホンダの日本人スタッフに真剣に取り合っていなかった。彼らの目的は海外の技術をただコピーするためだと考えていたのだ。しかしそれは大間違いで、ホンダのスタッフはバイクを研究して分析し、強みと弱点を把握し、その知識を元に独自のレーシングマシンを作り出すことに全力を傾けた。

 本田はすぐに、より優れたパフォーマンスをエンジンから得る最も重要な方法のひとつは、エンジンの回転数を上げることだと気づいた。そうして、RC142(2気筒8バルブ125cc)は4気筒16バルブの250ccのバイクに進化を遂げた。これは現代のスーパーバイクの誕生の時だった。インライン4、前傾型、そしてシリンダーの後部にオルタネーターを備えた16バルブという、数十年にわたって主流となる構成だ。

1959年のマン島TTスタートシーン
1959年のマン島TTスタートシーン

■マン島TTをきっかけに世界を支配する日本製バイク

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