私たちはラッキーなことにテーブルについて大きなスクリーンでレースを観ることができた。ふたりとも伝統的なイングリッシュブレックファーストを注文した。
植民地時代の名残で、バルバドスでは今も一般的なメニューだ。ベーコン、卵、マッシュルームとソーセージからなるこのメニューはイギリス国外で食べるのが非常に難しい。だがバルバドスでは完璧に料理されていた。
グランプリは見栄えがしなかった。マクラーレンのドライバーのファン・パブロ・モントーヤがポールポジションからスタートし、全周回で首位を走行して優勝した。
しかしながらレースがつまらなかった一方で、かつてない速さのトップスピードの記録が出たことは注目に値した(マクラーレンのキミ・ライコネンが370.1km/hを出した)。それに1台のリタイアも出なかったということもある。1961年以来、すべてのマシンがスタートしてフィニッシュしたのだ。
レースが終わるとすぐに、私たちはブッシー・パークのレースに向かった。そこではふたつの異なるチャンピオンシップが行われていた。CMRCと、地元のバルバドス・チャンピオンシップだ。
1日を通して異なるクラスが混在するレースとなった。ハンディキャップレースなので結局のところすべてのマシンが走行することができたようだ。私は異なるクラスと言ったが、私のノートにはグループと書いてあった。私はそれが何を意味するのか正確にわからなかった。
パドックに到着すると、さらに訳がわからなかった。私が慣れ親しんでいる整然としたレーシングパドックというより、そこは何かの市場のように見えた。
いたるところでマシンの作業が行われており、あらゆる種類の混乱が起きていた。誰がドライバーなのか、誰がチームの関係者なのか、誰が観客なのかはっきりしていなかった。
だがマシンは素晴らしいものだった。基本的にプロダクションカーをチューニングしたマシンであり、多くはイギリスか日本から輸入されたものだ。
植民地時代のルーツがあるため、バルバドスは右ハンドルのマシンを使用する。多くのマシンは私がイギリスで親しんでいるものだった。BMW 3シリーズは人気のある選択肢で、ホンダCR-Xも同様に人気だった。
すべてのマシンが準備万端の状態にあるわけではなく、私はこれらのマシンはヨーロッパのレースの車検には通らないのではないかと思った。
私はこうした下位グループのマシンを通り越して、最上位グループのCMRCマシンのところへ行ったが、このクラスはひどく極端だった。
私はオフィシャルにテクニカルレギュレーションについて説明を頼まなければならなかった。インターネットでレギュレーションを見つけることができなかったのだ。
「テクニカルレギュレーション?もちろんルールブックはあるけれど、これは時間内で行うレースだから、このクラスにはそれほどルールはないよ」と彼は私に話した。
私たちは、大きなウイングが取り付けられ、明らかに大幅に改造されたエンジンを載せた三菱ランサーエボリューション5のところに立っていた。それにもかかわらず、私はそれほど興奮してはいなかった。
私が世界の他の場所で見たことのあるエボ5ほど極端なものではなかったからだ。だがそれでも私はショックを受けそうだった。
また数台の三菱車があり、ほかはそれほど知られていないマシンだった。すべてが大幅に改造されていた。注目すべき1台は、珍しいセンターシートのロータス・エキシージだったが、それはコリン・マクレー時代のフォード・フォーカスWRCの隣にとめてあった。
フォード・フォーカスWRCはサーキットレース仕様に改造され、大きなリヤウイングとフロントスプリッターを備えていた。
その隣にあったのは、BTCCイギリス・ツーリングカー選手権に出ていたアウディ A4 STWで、ワークスカー時代よりもはるかに多くの開発と改造が施されていた。その隣にあったのは、アウディ TTで、元々はDTMドイツ・ツーリングカー選手権でレースをしていたものだった。
これらのうちで最もワイルドなマシンは、マツダRX3だった。特殊なメタノールと過酸化水素を混ぜた燃料で動く、ターボチャージャーつきのロータリーエンジンを搭載していた。走行時には爆音をたて、ドライバーが走り出すたびにエキゾーストから大きな炎が上がった。それは素晴らしく、めちゃくちゃに良かった。