ずっと応援しているドライバーでも、なかなか素顔はわからない。すっかりベテランとなり、「日本が大好き」だと言うジェンソン・バトンのことを私たちは、どれくらい知っているだろうか。ニッポンに興味を持った意外なきっかけ、飾らない性格と共存する繊細な気づかい、過去と現在ともに戦うホンダへの言葉──パドックで愛され、尊敬されるチャンピオンの“顔”を、今宮雅子氏が描き出す。

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「正直、フェルナンドのことは、あまりよく知らないんだ」

 アロンソとの関係について、こんなふうにジェンソン・バトンは話し始めた。このひとことだけ聞くと、ふたりには仕事上の最小限の交流しかないのかと誤解する人もいるかもしれない。

「一緒に出かけることもないし、レースのあと偶然バーで出会ったことがあるくらいかな……」

 でも、これは何事も大げさに飾らない、バトンらしい素直な言葉だ。

「フェルナンドとよく話していたのは、僕より父のほうだ」と続くところに、ふたりのドライバーの、絶妙の距離感が表れた。

「そうそう、いちばん密に一緒に過ごしたのはルノー時代、フラビオ・ブリアトーレの施設でトレーニング合宿したときだった。あのころと比べると“やんちゃ”な一面は減ったけど、フェルナンドの人間性は変っていないよ。ずっと同じフェルナンドのままだ」

 まるでクラスメイトのことを話すように締めくくった。だから、ドライバーとしてのアロンソに最大限の敬意を口にするときも、バトンの言葉は真実味があって心に響いてくる。

 2006年の鈴鹿、ミハエル・シューマッハーと同ポイントで日本GPに臨むフェルナンド・アロンソに対して、イギリスのメディアが「ここであなたがリタイアしたら、タイトルはシューマッハーに決まりだけど」と切り出したとき、デリカシーを欠いた言葉に怒りを露わにしたのは隣に座っていたバトンのほうだった。

「いいかい? 彼はワールド・チャンピオンのタイトルを懸けて戦っているんだよ。それがどういうことか、あなたにはわからないの?」

 2009年のシーズン後半、勝利から遠ざかったバトンについて「シーズン前半はブラウンのマシンにアドバンテージがあっただけじゃないのか」という意味合いの質問をされたアロンソは、毅然として「ジェンソンが速いのは今年に限ったことじゃない」と反駁した。

「2004年はフェラーリが圧倒的だったけど、彼らに続いたのはジェンソンだ。一緒に走っていた僕は、よく覚えているけれどね」

 同世代のふたりが互いに抱くリスペクトは、とても客観的で正当だ。

 大の親日家として知られるバトンは「今井さん(マクラーレンの今井弘エンジニア)にも『なんで、そんなに日本が好きなの?』って訊かれる」と言って笑う。

 記憶に残る最初のグランプリは1989年の鈴鹿──アイルトン・セナとアラン・プロストの接戦はシケインでの接触を生んだが、そんな結末とその後の政治的な闘争よりも、幼いジェンソンの心を奪ったのは、そこに至るまでのふたりの壮大な戦い。以来、鈴鹿サーキットはずっと憧れの場所だった。日本食が大好きでBAR時代から「週に4日は和食が食べたい」と話していた。でも、あらためて“日本好き”の理由を訊ねると「他人に対する礼儀を大切にできる国だからだと思う」と言う。

「日本人は、知らない人に対しても誰に対しても、敬意を持って接することができる。僕の家族もそうだし、それはとても大切なことだと感じながら育ってきた」

 だから日本に来ると、とても平穏な気持ちになる。鈴鹿のファンと接するときには、応援メッセージが琴線に触れる。東日本大震災後の2011年、鈴鹿のスタンドに Thank you for coming to Japan というメッセージを見つけたとき、父のジョン・バトンさんは瞳を潤ませた。「あのレースで優勝できたのは、ジェンソンの人生にとって本当に、本当に大切なことだったと思う」──。

 バトン自身も、日本で走ったレースで最高の思い出だと言った。

「僕は、ずっとセナとプロストのレースを見ていたから、僕にとって鈴鹿は多くのことを意味していた。2011年の日本GPは、あの年、僕がドライで勝利した唯一のレースだった。それに日本にとって、とても困難な時期に鈴鹿のファンの前で、いいレースを戦うことができた……カートで走る子供たちを見に行ったのも大切な思い出だ。子供たちが、ただ自分の大好きなことをやっている様子がうれしくて。スポーツは何があっても損なわれない。カートは、とてもシンプルなスポーツでドライビングへの愛情だけがそこにある。みんなが走っている様子を見て、僕もカート時代のことを思い出していた。日本に、とても才能豊かなドライバーがいることにも興奮していた」

 地震や津波、被災地という言葉を、いまもバトンは慎重に避けながら話す。

 日本好きになったきっかけは1996〜97年にカートのワールドカップを戦うために鈴鹿を訪れたときのこと。まだ自分は運転免許を持っていなかったけれど、年上のドライバーたちが乗る「でっかいウイングと大径ホイール」のクルマが「最高にクール」だと思ったし、ドリンクの自動販売機に心を奪われた。

「ホットティーもコールドティーも、ホットコーヒーもコールドコーヒーも、好きに選んでコインで買えるなんて(笑)! 世界一賢いマシンだと思ったね。何もかもがヨーロッパと違っていたから、すべてが新鮮でエキサイティングだった」

 2000年にF1ドライバーとして再び鈴鹿を訪れたときには、パドックから歩いて南コースを見に行った。「何も変わっていなくてうれしかった」──シンプルな言葉には、郷愁に似た思いがあふれていた。

 デビュー当時からジェンソン・バトンを見守ってきたファンは、彼のドライビングスタイル、滑らかな走行ラインに注目していたに違いない。ドライビングを説明するとき、彼は「ジェントルに」「丁寧に」という言葉を頻繁に使う。けっしてマシンに無理強いしない。「ノーズが入らない」「リヤがグリップしない」とピットに伝えるのは、いつもマシンの動きと自らのドライビングが調和するポイントを探し求めているからだ。

「ジェンソンが無線で伝えてくることは、もうひとりのドライバーも必ず感じています。彼が走行中にもいろいろと言ってくるのは、ピット側でも何か対応が可能だろうと我々を信頼してくれているからなんです」と、今井エンジニアは説明する。

 生まれながらの才能を備えたドライバーは、ともに働くエンジニアへの敬意を忘れず、ライバルと相対しても常にフェアであり続ける。デビュー当時は“ジェントルマン”であることが、おとなしすぎる印象を与えたかもしれないが、我が道を貫いてチャンピオンを獲得したいまは、真の紳士のままで強さを身につけた。

「ホンダの技術者たちは、いつも僕らに『申し訳ない』って言ってるよ。『思ったほどには良くなってないね』と。でも、それはポジティブなことでもあると思う──改善すべき点がわかっているということだから。2008年までのホンダと、いまのホンダは大きく違う。2008年までの彼らは技術者としてF1を経験して、その経験を持って他の部門に行ってしまうという印象だった。でも、いまはホンダはF1で勝たなければいけない、ここで自分たちが勝たなければいけないという意志を感じる。道のりは長くても到達しなきゃいけないと、ひとりひとりが強く思っている」

 2015年のようなシーズンを経験しながら、こんなふうにエンジンメーカーを語れるドライバーはジェンソン・バトンしかいないし、同じ信念を言葉にできるドライバーはフェルナンド・アロンソしかいない。ふたりの関係に厳しい緊張が生まれるとしたら、それは、勝利が見えたとき──つらくなるほど熾烈な戦い、逃げ出したいほどのプレッシャーがふたりを包んだとき、きっと、F1は救われる。

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