残念ながら、セーフティカーランだけでレースが終わってしまったWEC世界耐久選手権第6戦富士。日本のファンたちは最後までサーキットで待ち続け各チームに応援を送ったが、中でも日本育ちのドライバーが多いことから、トヨタと同様に熱心な応援を受けたアウディスポーツ・チーム・ヨーストだったが、そのアウディのスタッフをチーム内で力強く支えた日本人チームスタッフがいたのをご存じだろうか?
そのスタッフとは、高橋規一ドクター。かつてはスーパーGT300クラスなどに自ら参加していたレーシングドライバーでもあり、スーパーGTのオフィシャルドクターとして、FRO(ファースト・レスキュー・オペレーション)の導入などにも大きく貢献した人物だ。
アウディスポーツ・チーム・ヨーストは、高橋ドクターを昨年からチームドクターのひとりとして招聘。スーパーGT参戦時からドクターとの強い信頼関係を築いていたアウディのドライバーたちが、高橋ドクターの能力を高く評価し推薦したという一面もあったそうで、日本戦だけでなく他のレースにも帯同を希望されている。
そんな高橋ドクターに、富士で初めて仕事場を紹介してもらった。選手控室兼診察室として使われていたこの部屋には、ドライバーたちがマッサージを受けるベッドがふたつ。マッサージに関しては、やはり専属のスタッフが別にいるのだが、このベッドでドクターが診察を行う場合ももちろんある。その他、簡単な外科手術を行うことができるキットや各種薬品、注射器、酸素吸入器など、かなり本格的な装備が用意されていた。
ドクターによると「簡単な診療所を開けるくらい」の量を持ち込んだとのこと。なぜかと言えば、ドクターが面倒を見るのはドライバーだけでなく全スタッフであり、何十人もいるスタッフの体調すべてに気を配っているから。しかも場合によっては、チームドクターを用意していないプライベートチームのスタッフやドライバーが助けを求めに来ることもある。実際、昨年のWEC富士も今年も、他チームに発生した患者が高橋ドクターにSOSを送り、ドクターはイヤな顔ひとつせずに診療を行っていた。
また、この診療所(?)だけでなく、ピット内には折りたたんで持ち運べる担架やAED、酸素吸入器、その他ファーストエイドキットも用意。その中には、例えばやけどをした時にすぐ対処できるようなキットや、ヘルメットを被ったまま転倒して意識を失った場合に、頭部や頸部を傷めることなくヘルメットを脱がせるための道具などが入っている。
もちろん、こうしたものがレース中に登場する機会はまれ。ドクターにとっては“ヒマであること”=スタッフが元気&無事ということなので、それに越したことはない。しかし、それでもこれだけの準備をしているのは、まさにアウディスポーツ・チーム・ヨーストが“転ばぬ先の杖”ということを理解しているからだろう。そういえばレース自体を見ていても、ヨーストの仕事ぶりは常に、“備えあれば憂いなし”を実践していると随所に感じられる。つまりすべてが同じ精神で貫かれているということだ。
しかしチームドクターというのは、医師免許を持っているからといって、誰もがなれるものではない。高橋ドクターが招聘されたのは、レースやクルマを理解し、なおかつチーム無線をすべて聞き取れるからだ。たとえば今年のル・マン24時間で、アウディ1号車はオルタネーターのトラブルに見舞われたが、その時の無線を聞いて高橋ドクターがまず考えたのは「やけど治療の準備をすること」だったと言う。
これはオルタネーターがエンジン前部にあり、メカニックが高温になった部分に触れる可能性が高いため。つまり、英語の無線を聞き取り、クルマの仕組みからメカニックがどういう作業をするかが分かり、なおかつどういう症状の患者が発生する可能性があるかを瞬時に判断できる人物でなければ、レース現場でのドクターにはなれないということだ。高橋ドクターはうってつけの人物だったということだろう。
今後、高橋ドクターはレース現場での医療体制をさらに進化させようと、高い理想を掲げている。アウディはその理想にも賛同してくれたということで、今では、高橋ドクターに全幅の信頼を寄せているそうだ。