18歳を迎える2012年、サインツはカーリンからユーロF3、イギリスF3、そしてFIAヨーロピアンF3という計3シリーズに参戦した。ヨーロピアンF3はFIAの冠がついているとおり、FIAが2012年に立ち上げた新シリーズだ。ただ、これは同年のユーロF3(全8大会)のうち7大会、同年のイギリスF3(全10大会)のうちポー・グランプリとスパ・フランコルシャンの2大会、そして両シリーズでシリーズ戦に組み込まれたノリスリンク(公道コース/車両規則はユーロF3準拠)を得点対象とする全10戦で構成された選手権だった。
なぜこのような開催形式となったのか、その大きな要因は2010年に立ち上がったGP3の盛況ぶりにある。F1を目指す若手ドライバーにとってF1、GP2と同じ週末に同じ場所で開催されるGP3は魅力的であり、結果的にそれまで各地のF3に参戦していたドライバーのうち30名/30台がGP3に流れることになった。その影響を最も受け、参戦台数減少に悩まされたのがユーロF3だった。
そこで、FIA世界モータースポーツ評議会(WMSC)はFIAヨーロピアンF3の立ち上げを決定した。当初はイギリスF3をユーロF3に統合させるという計画だったが、この計画は承認されず、ユーロF3とイギリスF3の一部ラウンドから構成される独立した選手権としてFIAヨーロピアンF3は発足したのだった(編注:2013年にはユーロF3が終了し、事実上FIAヨーロピアンF3が引き継いだ)。
サインツは、FIAヨーロピアンF3の対象となる全レースに参戦。また、ユーロF3全戦。イギリスF3は最終戦ドニントンパークの3レースのみ欠場していることから、サインツにとっての主戦場はFIAヨーロピアンF3/ユーロF3だったようだ。しかし、同年の優勝はイギリスF3での4勝。そのうちFIAヨーロピアンF3の対象レースでの優勝は1回に留まり、ユーロF3に至っては優勝を記録できなかった。
いずれの選手権でもタイトル争いに加わることは叶わず。さらに、ザントフォールトのマスターズF3、ギア・サーキットでのF3マカオGPでも表彰台に上がることはできなかった。サインツにとって、カーリンと過ごした2012年はF1以前の四輪キャリアで最も厳しいシーズンとなった。余談だが、ユーロF3はハンコック、イギリスF3はクーパータイヤ、マスターズF3はクムホ、F3マカオGPはヨコハマタイヤがそれぞれタイヤサプライヤーを務めていた。



19歳を迎える2013年、サインツは当時すでにF1への王道ルートだったGP3に活動の場を移した。レッドブルが用意したのは前年のチームランキング2位のMWアーデン(アーデンとマーク・ウエーバーの共同運営)のシートで、初年度からタイトルを狙えるポテンシャルがあったのは確かだ。なぜなら、ユーロ・フォーミュラ・ルノー2.0からステップアップしたチームメイトのクビアトが3勝を飾り、選手権2位に30点もの大差をつけてシリーズタイトルを掴んだのだから。
サインツはポールポジション1回、表彰台は2度でGP3は選手権10位となった。車重不足と自身の過失による追突で2度失格となり獲得ポイントは66点。フォーミュラBMW時代、フォーミュラ・ルノー2.0時代に負けることのなかったクビアトは168点を獲得。サインツは102点もの大差をつけられてしまった。
GP3に参戦しつつ、2013年はフォーミュラ・ルノー3.5の9戦中5戦9レースに出走。そして同年7月にはシルバーストンで開催されたF1若手ドライバーテストにトロロッソ(現レーシングブルズ)とレッドブルの2チームから出走した。ただ、レッドブルとトロロッソからは、同じく育成のクビアトとアントニオ・フェリックス・ダ・コスタが参加。さらには当時GP2参戦中だったジョニー・チェコットもレッドブル育成外ながらトロロッソをドライブしていた。




初のF1ドライブの余韻に浸るまもなく、サインツは窮地に立たされていた。2年連続で結果を残せなかったからだ。事実、GP3で好調のクビアトは、GP3参戦中の10月、翌2014年からトロロッソでF1を戦うことが発表された。たとえラリー界のレジェンドの父がおり、その父もレッドブルの支援を受けるスペインの英雄であっても、自分自身の結果が伴わなければ先がないことは、サインツもわかっていた。
先に進むためには王者になるしかない2014年、20歳を迎えるサインツは参戦カテゴリーをフォーミュラ・ルノー3.5に絞った。同カテゴリーはGP2相当のビッグフォーミュラでありながら、コスト面で優位性があり予算的理由などでGP2に参戦が叶わないドライバーが集結するシリーズとなっていた。サインツは必ずチャンピオンになるべく、前年王者ケビン・マグヌッセンが離れたダムスのシートを掴んだ。しかし、GP2ほどではないもののライバルには強力な面子が顔を並べていた。
レッドブル育成のピエール・ガスリー(アーデン・モータースポーツ)をはじめ、同郷の名手ロベルト・メルヒ(ゼータ・コルセ)、レーシング・ステップス財団のサポートを受けるオリバー・ローランド(フォーテック・モータースポーツ)、ザウバーF1のテストドライバーを務めるセルゲイ・シロトキン(フォーテック・モータースポーツ)など、彼らを倒すことができれば、ヘルムート・マルコ(当時レッドブルのモータースポーツアドバイザー)もサインツのF1昇格に納得するだろうという顔ぶれだった。
さて、全9戦17レース(基本1戦2レースだが、モナコのみ1戦1レース)の戦いが終わると、サインツは7勝、7回のポールポジション、6回のファステストラップを記録し、シリーズチャンピオンに輝いた。選手権2位にはガスリーが続いたが、その差は35点という大差。ガスリーはサインツの隙間をこじ開けることができず、優勝を記録することができなかった。レッドブル育成ドライバーのフォーミュラ・ルノー3.5でのタイトル獲得は初であり、シーズン7勝はシリーズの歴代最多記録だった。



2015年シーズンに向けて、トロロッソはサインツをレギュラードライバーに指名した。その理由をマルコはレッドブルの公式サイト内のインタビューにて「カルロスはレッドブル・ジュニア・チームに長年所属しているドライバーだ。調子のアップダウンもあったが、今シーズンのフォーミュラ・ルノー3.5を制したのが説得材料になった。特に7勝して新記録を更新したのは大きかった。フォーミュラ・ルノー3.5でそこまでの成績を収めたドライバーはいない。彼はここ2年で大きく成長した」と、説明した。
なお、同年のGP2はマクラーレン育成のバンドーンが選手権2位アレクサンダー・ロッシに160点もの大差を築いてタイトルを獲得していた。もし、サインツがフォーミュラ・ルノー3.5ではなく、王道ルートのGP2を選んでいた場合、マルコを納得させる成績を残すことはより困難を極めただろう。非王道ルートを選んだことで、サインツは自らF1への道をこじ開けたのだった。
20歳でF1デビューを飾ったサインツ。同年のチームメイトも新人で、元F1ドライバーの息子というオランダ出身のマックス・フェルスタッペンという17歳のドライバーだった。その後サインツがF1初優勝を飾ったのは、フェラーリ移籍後の2022年。その年のチャンピオンも確か、フェルスタッペンという名前だった。



