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F1 ニュース

投稿日: 2021.10.09 14:30
更新日: 2021.10.09 14:00

「トラブル続きでどうしようもなかった」ゴードン・マレーが語る“ラジカルすぎた失敗作”ブラバムBT55

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F1 | 「トラブル続きでどうしようもなかった」ゴードン・マレーが語る“ラジカルすぎた失敗作”ブラバムBT55

──エリオ・デ・アンジェリスの事故死は、あなたにとっても大きな精神的打撃でしたか?

「ああ。1986年シーズンは悲惨だったの一語に尽きる。あの事故は、私にとっても決定的な出来事だった。それまで自分のクルマのドライバーをアクシデントで失ったことはなかったし、エリオも対処が適切であれば命は助かったはずだ。クラッシュで負ったケガは片方の鎖骨の骨折だけだったのに、現場にまともな消火器がなかったんだ。避けられない死ではなかったと思う。そして、それが決定打になり、私はもうF1には関わりたくない、どこか別の世界で違うことをしようと決心した」

「私たちは乗用車で現場に駆けつけ、クルマが燃えているのを目の当たりにした。公平を期して言えば、当時テストに使っていたサーキットの多くは、救命体制がそれほどしっかりしていなかった。だが、その場にいたマーシャルは、小さな手持ちの消火器を1本か2本持っていただけで、それもすぐに空になった。続いて消防車が到着して消火の準備を始めたので、これで火は消し止められると思った。私たちは横転したクルマを起こそうとしたが、炎のせいであまり近づけなかった。ところが、あろうことか消防車の放水ホースが外れてしまい、もはやそれまでだった」

──クラッシュの原因はウイングの翼端板の破損だったのでしょうか?

「結局、分からずじまいだった。ウイングはクルマから遠く離れたところで見つかった。けれども、ほかにも多くのパーツが、クルマから離れた場所に散乱していた。確かにウイングの翼端板は壊れていたが、何が最初に起きたのかは、残念ながら映像がないので何とも言えない。ただ、あそこはかなりの高速コーナーで、当時でも超高速と言うべき場所だったから、何が起きても不思議はないんだ。タイヤがパンクしたかもしれないし、彼が限界を超える速度で入ってしまったのかもしれない。ありとあらゆる可能性が考えられる」

──エリオとともに仕事をした時間は、それほど長くなかったかもしれませんが、彼にはどんな印象を持っていましたか?

「好きだったよ。本当に素晴らしい人物で、私たちはすぐに友人になった。彼も音楽が好きだったからね。そして、チームともいい関係を築くことができて、もうそれ以上は望めないほどの人だった」

──後任に迎えたデレック・ワーウィックも好人物で、チームのモチベーション維持に貢献しましたね。

「そのとおりだ。ただ、彼が初めてクルマに乗り込んだとき、ドライビングポジションについて文句を言われたことは、いまだによく憶えている(笑)。デレックは、あのチームにはぴったりの人柄で、メカニックたちとも仲良くやっていた」

ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)
ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)

■崩れゆくチーム

──そんな年にも、何かポジティブなことはあったのではありませんか? あるいは、特にあの事故の後は、ずっと下り坂のようなものだったのでしょうか?

「本当にひどいシーズンだった。クルマのデザインがまとまったとき、そして風洞で大幅な進歩が確かめられたときには、チームのみんなが期待に胸を膨らませた。ところが、実際に走らせてみると、トラブル続きでどうしようもなかった。だから、まずは問題解決に注力しなければならず、結果としてチームとBMWとの間に、それまで一度もなかったような軋轢も生じた。決して楽しいことではなかったね」

「ネルソンは契約金の件でバーニーと言い争いになり、すでにチームを離れていた。彼は長い間ブラバムでドライブし、私との付き合いは7年にも及んでいた。私に言わせれば、チームは右腕を失ったにも等しかった。あのタイヤ会社との契約も、凋落傾向に輪をかけることになった。BMWのエンジン供給契約は終わりに近づき、確かその翌年いっぱいで終了したと思う。ピレリタイヤも結局あの年限りだった。そうしたあらゆることに加えて、バーニーはもうチームへの関心を失って、F1全体を今日のようなものにしていく仕事に全精力を注いでいた。そんなふうに、状況が意欲を失わせる方向に働いていたところへ、あのエリオの死亡事故が起きて、私は『もうたくさんだ』と思うようになった」

──F1から離れようと決めたと言いながら、その後、あなたはマクラーレンへ移籍しました……。

「それはロン・デニスに口説き落とされたからだ。私はデザインコンサルタント会社を立ち上げて、公道を走るスーパーカーを作りたい顧客を見つけようと思っていた。一方、ロンはジョン・バーナードを失ったばかりで、私をとても熱心に誘ってくれた。彼のチームには、この世界で経験のあるデザイナーも、かつて自分でクルマをデザインしたことがある者もいなくなっていたんだ。だから、彼はテクニカルチームのリーダーになれる人物を探していて、私を説得しようと試みた。大金を積まれたわけではない。実際、年俸はブラバム時代と変わらなかった」

「ただ、マクラーレンに入る条件として、デザインだけではなくあらゆることについて、つまり技術チームの運営やファクトリーの設計なども完全にコントロールしたいと伝えた。ちょうどそのころ、マクラーレンは新ファクトリーへ移転しようとしていた。だから、ファクトリーのレイアウトや運営方法、システムなどを任せてほしかったんだ。ロンが探していたのはチーフデザイナーのような人材だったが、私はそれには『ノー』と答えた。ブラバムでは、技術面のすべてに発言権があるテクニカルディレクターだったからだ。そして、彼は私の希望を受け入れた」

──バーニーが何でも勝手に決めてきたことを、快く思っていなかったのでしょうか?

「公平を期して言うと、バーニーは大概のことは私に相談してくれた。だが、ピレリへのスイッチについては、事前に何も聞かされていなかった。選手権を勝ち取るためには、チーフデザイナーであることに満足してはならず、テスト、モノコックの製法、機械加工部門の運営と、あらゆることをコントロールする必要があるというのが私の考えだった。そして、チームの幹部として、エンジン、トランスミッション、タイヤのサプライヤーの選択にも関与できる立場でなければならない。ロンが私の出した条件に同意したとき、私は『何があろうと3年限りだ』と伝えていた。だから、直接的に関わったクルマはMP4/4、5、5Bの3台だけで、その後はF1の世界を離れた」

──BT55の設計図面を持って、マクラーレンへ行ったというのは本当ですか?

「ああ、持って行ったよ。もう少し後の時代だったら、訴えられて監獄行きだったかもしれない(笑)。もっとも、図面を一式全部というわけではない。マクラーレンのモノコックの作り方がブラバムとは違うことは知っていたし、Zドライブのギヤボックスも必要なかった。ニール・オートレーとスティーブ・ニコルズのデスクに置いたのは、ドライビングポジションも含めたレイアウト図のようなものだ。私はマクラーレンのモノコックの図面をもらい、それにBT55のドライビングポジションを描き入れて、クルマ全体のデザイン作業をスタートさせた」

──あなたのコンセプトが間違っていなかったことは、MP4/4で証明されたのですね?

「そうだね。実際、F1のドライバーたちは、いまだに寝そべった姿勢でドライブしているじゃないか(笑)。MP4/4のレイアウトはBT55とほとんど同じで、重心の低さではやや劣っていたものの、大きな違いはなかった。空力に関しては、わずかながらBT55の方が優れていたと思う。ホンダも私の希望に応えてエンジンを約30mm低くしてくれたが、BMWは72度くらい傾いていて、ほぼ完全にフラットだったからね。エンジンとしてはダメだったけど(笑)」

──バーニーと決別し、ブラバムを辞めたことを後悔しませんでしたか?

「いや、悔いはないよ。正直に言って、私たちはそれぞれが別の理由で、それぞれの道を進んだと思っている。レースでいつも優勝を争い、技術的に新しいことにトライしたい者としては、当時のブラバムは下り坂を転げ落ちつつあるように思えた。チームそのもの、そしてメンバーの士気も下降気味だった。バーニーはF1全体を運営したいと考えていて、チームへの関心を失い始めていた。だから、それぞれが違うことを目指して、ごく自然に別の道を歩んだと言うのが正しいと思う」

──それでも、うまくいっている間は、働く者にとって最高のチームだったのですね?

「素晴らしいチームだったね。ロンと同様に、バーニーもクルマのデザインだけではなく、あらゆることを自由にやらせてくれた。まあ、予算がずいぶんタイトだったのは確かだが、それは何でも自分たちで作ることで克服していた。風洞もオートクレーブも自作したよ。振り返ってみれば、グランプリチームで最初にローリングロード式の風洞を所有したのも、カーボンファイバーオーブンとオートクレーブを備えて、カーボンパーツを内製したのも私たちだった。どれも自分たちの手で、それもかなりの低予算で作ったんだ」

ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)
ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)

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『GP Car Story Vol.37 Brabham BT55』では、今回お届けしたゴードン・マレーのインタビュー以外にも見どころ満載。マレーとともに車両開発に従事したデビッド・ノースやジョン・ジェントリーほか、苦しいドライビングポジションでの操縦を余儀なくされたドライバー陣営からはリカルド・パトレーゼとデレック・ワーウィック。チーム運営の立場からハービー・ブラッシュ、そしてGP Car Story初登場(!)のオーナーであるバーニー・エクレストンが、1986年のブラバムを語ってくれている。

 もちろん、忘れてはいけないこの年の悲しいエリオ・デ・アンジェリスの事故の詳細にも触れている。BT55がなぜ成功できなかったのか、ブラバム・チームの内部で何が起こっていた、実際にお手にとってあなたの目で確かめていただきたい。『GP Car Story Vol.37 Brabham BT55』は全国書店やインターネット通販サイトにて10月7日発売。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12066)まで。

『GP Car Story Vol.37 Brabham BT55』の詳細はこちら
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