23日、ル・マン24時間を含むWEC世界耐久選手権のLMP1クラスに参戦してからわずか一年足らずながら、16年シーズンの参戦を取りやめることを発表したニッサン。しかし、ニッサンにとってル・マンは、長らく優勝を夢見てきた特別な舞台でもある。1986年から始まった、ニッサンのル・マンへの挑戦の道筋を振り返った。
83年からグループC活動をスタートさせたニッサンは、84年にニスモを設立してレース活動を強化。85年には、富士スピードウェイで開催された当時の世界耐久選手権でマーチ85Gが優勝を果たし、86年からのル・マン挑戦を決めた。
ル・マン初挑戦となった86年は、マーチ86Gとマーチ85Gの2台体制で参戦。32号車の85Gが16位完走を果たす。その後も毎年ル・マンへの挑戦を続けたニッサンは、89年からトヨタやマツダとともにWSPC世界プロトタイプカー選手権へのフル参戦を開始する。
その89年は、ローラと共同開発したR89Cに、3.5リッターV8ツインターボのVRH35エンジンを搭載。迎えた6月のル・マンには日本のニスモ(23号車)、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME/24号車)、北米IMSAで最強の存在となっていたエレクトラモーティブ(25号車)の3台体制で参戦。ポテンシャルを見せつけるも、最終的には3台ともリタイアに終わった。
翌90年は、ローラ製のR89Cをベースにフロントサスペンション等を改良したR90CKを、NMEと、そして北米のニッサンの活動を担うNPTIが2台ずつ投入。また、ニスモも日本独自のR90CPを開発し、ニッサンワークスだけで総勢5台、サテライトチームも含め総勢7台という体制でル・マンに臨んだ。
予選では、予選用スペシャルエンジンを投入したNMEの24号車R90CKがニッサンにル・マン初ポールポジションをもたらす。ただ、もともとポール争いはしない約束だった日米欧の3チームの関係は予選後に一気に悪化し、本来あるべきマシンの情報交換がなされないまま、決勝ではR90CKが続々とストップ。最終的にはニスモの23号車R90CPの5位が最上位となり、初優勝という悲願達成はならなかった。
その後、グループCレギュレーションに翻弄され、ニッサンのCカーがル・マンに戻ることはなかったが、95年からはR33 GT-RをベースとしたニスモGT-R LMの2台体制でル・マンに再挑戦。この年は22号車が総合10位、翌96年は23号車が総合15位となった。
そして97年、トム・ウォーキンショー・レーシングと組んでR390 GT1を開発。予備予選までは速さをみせるものの、トランクのレギュレーションの解釈により行った車両改造により信頼性を欠くことに。2台がリタイアし、最上位は12位となった。しかし、翌98年は信頼性も大幅に向上し、ロングテール化等の改良が施されたR390 GT1は、星野一義/鈴木亜久里/影山正彦組の32号車が3位フィニッシュ。ニッサンは初挑戦から12年で、ル・マンの表彰台に初めて上った。
続く99年、ニッサンはレギュレーションの流れを読み、パノスと共同で開発したプロトタイプカー、R391をル・マンに投入。ただし1台は予選中にクラッシュ、もう1台はトラブルでリタイアという結果となり、その後、ニッサンのル・マン挑戦はしばらくの間途絶えることとなった。
ただニッサンは2010年から、ル・マン規定のLMP2マシン用のエンジンとして、09年までスーパーGT500クラスで活用されていたVK45DEエンジンの供給を開始。このVK45DEエンジンは、今やLMP2クラスで圧倒的なシェアを誇るまでになった。
さらに、2012年には、環境技術を志向するマシンのために設けられた賞典外の特別枠“ガレージ#56”より、“三角形”に近いユニークな形状のニッサン-デルタウイングを投入。さらに14年には、エンジン駆動と電気駆動を切り替えることができるニッサンZEOD RCを、同じくガレージ#56枠からエントリーし、ル・マンでの存在感を高めていった。
そんなニッサンにとって16年ぶりとなるル・マン/WEC(世界耐久選手権)の最高峰クラスへの参戦は、14年5月23日に発表。『GT-R LMニスモ』との名称も明かされ、大いに期待を集めた。そして今年2月には、アメリカのNFL王座決定戦となるスーパーボウルでのコマーシャルで大々的に参戦を公にし、異色のFFレイアウトを採用したGT-R LMニスモを初公開。プロトタイプカーの常識を覆すこのマシンが、どれほどのパフォーマンスを見せるのかに俄然注目が集まった。
しかし、その後の開発プログラムの遅れにより、WECの序盤2戦は欠場。ル・マンには3台エントリーを果たしたものの、レース本番は多くのトラブルに見舞われたほか、メーカーワークスチームに搭載が義務付けられたハイブリッドシステムも機能していなかった。結果、最終的には3台ともに完走はならず。WECの残りのレースも欠場することになったものの、ニッサンは組織改革も行いながら、16年の参戦再開に向けて開発を継続していた。
今回の参戦中止の決定により、悲願成就までの道のりは再び遠のいてしまった。いつかまた、ル・マンの舞台でニッサンの勇姿が見られることを願うばかりだ。