• 大会:1984年第1戦ブラジルGP
  • 出走チーム:トールマン・ハート
  • 予選:16番手
  • 決勝:リタイア

 アイルトン・セナが渡英し、本腰を入れて四輪レースに取り組み始めたのは20歳過ぎ。1981年のフォーミュラ・フォード1600でも、1982年のフォーミュラ・フォード2000でも彼は圧倒的な成績で2冠を達成した。1983年のイギリスF3選手権でもセナは、開幕9連勝という圧倒的な速さを見せ最終的には王座に就いた。同年のF3マカオGP優勝も輝かしい成績のひとつと言える。

 そんなセナに興味を示すF1チームはいくつかあった。マクラーレン、ブラバム、ウイリアムズ、トールマンでは実際にテストドライブをしている。ただし、シートを用意できたのはトールマンだけ。セナのF1デビュー戦は母国で開催された1984年のブラジルGP。チームメイトを圧倒するタイムで予選16番手を奪い、決勝は1周目に13番手へ上がったものの、ターボチャージャーの破損でレース開始早々の8周目にリタイアした。

「マシントラブルでリタイアを余儀なくされたのは不運。スタートはうまく決まったし周囲のライバルとしっかりバトルできていた。ブラジルのファンの前で、もっと長く走りたかったというのが本音だよ。でも、これもレースだ」とセナは現実を見据えていた。

 セナのF1デビュー戦は決して目立つものではなかったが、第2戦南アフリカGPと第3戦ベルギーGPで連続6位入賞。そしていまも語り継がれる幻のF1初優勝、つまり第6戦モナコGPまでのカウントダウンは確実に始まっていた。

■アイルトン・セナのF1初優勝

  • 大会:1985年第2戦ポルトガルGP
  • 出走チーム:ロータス・ルノー
  • 予選:ポールポジション

 1985年のチーム移籍2戦目、F1参戦18戦目にしてセナは優勝を飾った。衝撃的な走りを見せた前年モナコGPと同じく雨天の決勝。エストリルで開催されたこの第2戦ポルトガルGPも、朝から激しい雨に見舞われてコースはヘビーウエットコンディション。ポールポジションの彼は抜群のスタートで首位をキープ、クリアな視界を得ていたという優位もあって1周目から後続を引き離した。

 サバイバルレースという一面もあり、序盤からスピン/クラッシュでリタイアするドライバーが続出した。その中には予選2番手だったアラン・プロスト(マクラーレンTAGポルシェ)や予選3番手だった1982年王者ケケ・ロズベルグ(ウイリアムズ・ホンダ)の姿も。トップを走るセナ自身もあまりの悪天候に、レーススチュワードに対して中止を訴える場面さえあった。

 レースは70周予定だったが67周へ短縮されて終了した。最終的にセナは一度も首位を譲ることなく、2位ミケーレ・アルボレート(フェラーリ)に1分2秒978もの大差をつける圧勝。しかも、セナと同一周回でレースを終えたのはそのアルボレートだけだった。

「クルマのコントロールを維持するだけで肉体的にも精神的にも限界だった」とレース後に語ったセナ。「自分が何回クラッシュしそうになったか、もう数え切れないよ。トラックのコンディションは本当に危険だった。昨年の(モナコGPの)10倍はひどかったね」と付け加えた。

■ネルソン・ピケ(戴冠3回)のF1デビューレース

  • 大会:1978年第11戦ドイツGP
  • 出走チーム:エンサイン・フォード
  • 予選:21番手
  • 決勝:リタイア

 医師であり、政治家であり、資産家だったピケの父は、プロテニス選手として活動するよう彼をアメリカへ留学させた。しかし、ネルソン・ピケ自身はこのスポーツを刺激的とは思えず父に逆らい、自動車整備工場で働きながら自動車レース参戦資金を捻出。渡英してイギリスを中心に欧州のジュニアフォーミュラへ挑戦した。

 ピケの活動資金はギリギリだったものの、1977年のヨーロッパF3選手権3位、1978年のイギリスF3選手権で王座に就いた。そんなピケに1戦限りながらシートをオファーしたのは、F1下位チームであるエンサイン代表のモーリス・ナン。1978年の第11戦ドイツGPでピケに用意されたのは、戦闘力が低い前年仕様のクルマだったが、予選は21番手で無事に通過した。

 決勝ではスタート直後に上位で相次ぎ発生したクラッシュにピケは巻き込まれず、1周目にして18番手へ浮上。リタイア直前には12番手まで順位を上げていた。しかし、残念ながらエンジンのトラブルでリタイアした。

「F1は信じられないほど速く、F3とはまったくの別世界だった。結果はリタイアだったが、自分のパフォーマンスには満足している」とピケ。彼の活躍はブラバムのオーナーであるバーニー・エクレストンへも届き、同年最終戦カナダGPでピケを3台目のドライバーとして大抜擢。レギュラードライバーのニキ・ラウダやジョン・ワトソンがリタイアする一方でピケは11位で完走。こうしてブラバムとピケの蜜月時代は幕を開けた。

1978年F1第11戦ドイツGPでF1デビューを迎えたネルソン・ピケ(エンサイン)

■ネルソン・ピケのF1初優勝

  • 大会:1980年第4戦アメリカ西GP
  • 出走チーム:ブラバム・フォード
  • 予選:ポールポジション

 ピケは1979年より、1975年と1977年のF1王者ニキ・ラウダとナンバー2の立場でコンビを組みブラバムで戦い始めた。もっとも、エースだったラウダは同年第14戦カナダGP期間中に突然の引退表明。パワフルだが信頼性の低いアルファロメオエンジンにチームも手を焼き、フォードエンジンに変えたばかりだった。

 翌1980年のブラバムはピケをエースに据えてシーズン開幕。期待に応えた彼は第4戦アメリカ西GPで、2番手ルネ・アルヌー(ルノー)に約1秒を引き離してのポールポジションを獲得した。決勝では後続で発生する事故や混乱を尻目にトップのままひとり旅。一度も首位の座を譲ることなく、2位リカルド・パトレーゼ(アロウズ)に50秒近くの大差をつけてチェッカーを受けた。

 ファステストラップのおまけもついたF1キャリア24戦目での優勝。「信じられないよ。ついに勝てた。すべてが完璧に機能したんだ。マシンもタイヤも、レース中ずっと素晴らしかった」「本当に長いレースだった。ロングビーチのコンクリート壁に囲まれたコースは、1周たりとも気が抜けない。体力的にも精神的にも、これまでで最もタフなレースのひとつだった」と記者会見でピケは述べた。

 1980年のピケはタイトル争いにも加わり、第11戦オランダGPと第12戦イタリアGPの2連勝でアラン・ジョーンズ(ウイリアムズ)を抜き1点差ながらランキングトップへ浮上。しかし第13戦カナダGPと最終戦アメリカGPをともにリタイアに終わり惜しくも初戴冠を逃した。

ネルソン・ピケがドライブする1980年のブラバムBT49・フォード(写真はイタリアGP)

■ニキ・ラウダ(戴冠3回)のF1デビューレース

  • 大会:1971年第8戦オーストリアGP
  • 出走チーム:マーチ・フォード
  • 予選:21番手
  • 決勝:リタイア

 ニキ・ラウダは裕福な生家に育ち、彼の父エルンスト・ピーターも祖父ハンスも実業家として成功した資産家だった。しかし、ふたりとも『一族の名誉を汚すな! ビジネスの世界で生きろ!』とラウダのレース活動に大反対。1971年シーズンのレース活動がエルステ・エスターライヒシェ銀行とのスポンサー兼融資に裏付けられていた知ると、祖父は裏から手を回してその契約を潰した。

 そこでラウダはライバル銀行であるライファイゼン銀行へ赴き直談判、1972年以降のレース活動に関するスポンサー兼融資(生命保険を担保に5年返済・無利子)の話をまとめ上げた。その証はラウダのヘルメットの額もしくは顎の部分に貼られたステッカーロゴマークにある。

 ふたつの銀行から調達した資金はいずれも、英国のレーシングチームであるマーチへ支払われ、1971年ヨーロッパF2への参戦権および1971年F1第8戦オーストリアGPの参戦権、1972年以降のF1参戦権つながる。もっともマーチはF1で1台目に乗るエースのロニー・ピーターソンに全力投球しており、2台目3台目はあくまで資金を持ち込めるドライバーに用意していただけ。

 実際にラウダが1971年に母国で乗ったクルマもまともに整備されてはおらず、「ハンドリングが完全に狂っていて、コース上に留まるだけで精一杯だった。レースどころかまともにドライビングできる状態ではなかった」とのことで規定周回数の半分以下で見切りをつけ、自分でピットロードへクルマを進めてレースを止めた。

1971年第8戦オーストリアGP F1デビュー戦を迎えたニキ・ラウダ(マーチ)

■ニキ・ラウダのF1初優勝

  • 大会:1974年第4戦スペインGP
  • 出走チーム:フェラーリ
  • 予選:ポールポジション

 まず、1970年初頭のフェラーリはF1だけでなく世界耐久選手権(国際メーカー選手権)にも資金と人員を投じる二足の草鞋状態だった。実際に1972年には後者で王座に就いている。しかし、この両天秤状態の代償は大きく1973年限りでスポーツカー活動を停止しF1へ一本化することとなった。

 1974年のフェラーリはクレイ・レガッツォーニを呼び戻しラウダを新たにF1で起用。エンツォ・フェラーリがラウダに注目し、レガッツォーニもラウダをフェラーリに推薦し、1974年からのフェラーリのF1建て直しを任されたルカ・ディ・モンテゼーモロがラウダを勧誘した。

 1974年第4戦スペインGPでラウダは、マーチ時代の同僚ピーターソンを僅か0.03秒差で下してポールポジションを獲得、前戦南アフリカGPの初ポールに続くものだった。ちなみに南アフリカではピーターソンに抜かれはしたが、安定したペース(ファステストラップも獲得)で2番手を走行。しかし、電気系のトラブルでラウダはレース終盤にリタイア(16位完走扱い)を喫していた。

 だからこそ2度目のポールポジションをラウダは活かしたかった。決勝はヘビーウエットコンディションの中スタートが切られて、ラウダはここでもピーターソンに先行を許した。ところがまもなく雨は止んで路面はみるみる乾いていき、フェラーリは20周目過ぎにラウダをピットへ呼び戻してスリックタイヤへ交換。一方のピーターソンは同じ時期にエンジントラブルでリタイア。ラウダは同僚レガッツォーニに約35秒の大差をつけてF1デビューから32戦目でF1初優勝を飾った。

(執筆:石井功次郎)

本日のレースクイーン

佐々木美乃里ささきみのり
2026年 / スーパーGT
ARTA GALS
  • auto sport ch by autosport web

    倒す相手を、信じてる。小林利徠斗 × 野村勇【FORMATION LAP Produced by auto sport】2026 Episode 2

    倒す相手を、信じてる。小林利徠斗 × 野村勇斗
    【FORMATION LAP Produced by auto sport】
    2026 Episode 2

  • auto sport

    auto sport 2026年9月号 No.1623

    [ SUPER GT 熱闘“再点火”特集 ]
    RE:IGNITION

  • asweb shop

    F速 Premium Vol.3
    角田裕毅 現在・過去・未来

    2,100円