A1GPはローラB05/52シャシーにザイテック製3.4リッターV8エンジンを搭載。通常時の最大出力は520馬力で、パワーブーストモードを使用した際には550馬力を発する、F3よりも大柄かつビッグパワーのマシンだった。

 モータースポーツのオリンピック、国別対抗戦がコンセプトだったA1GPのチームは国単位。ヒュルケンベルグが加入したチームドイツは、当時GP2で強豪の一角だったイギリスのスーパーノヴァ・レーシングが技術面を担っており、体制面では万全だった。

 またチームドイツのオーナーは、1980年代から2009年末までミハエル・シューマッハーの代理人(マネージャー)を務めていたウィリー・ウェバーだった。このA1GPチームドイツでの起用がきっかけで、ウェバーがヒュルケンベルグの代理人を務めるようになる。

 A1GPの開催地はヨーロッパにとどまらず、北京市街地、上海、マレーシア、インドネシア、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、メキシコでも開催された。

 ヒュルケンベルグにとって未経験のコースがほとんど。しかし、彼は初走行のニュージーランド、オーストラリア、南アフリカでの6連勝を含む22レース中9勝を飾り、チームドイツにシリーズタイトルをもたらした(A1GPはチームタイトルのみでドライバーズタイトルの設定はない)。なお、チーム・スイスからはブエミが参戦していたが、彼は表彰台に上がることはなかった。

 2009〜2010年シーズンを最後にA1GPが消滅して久しい現在。ヒュルケンベルグがもたらしたチームドイツの金メダル(タイトル)獲得は、今では『マイナーカテゴリーでの活躍』にすぎないかもしれない。ただ、ヒュルケンベルグがウェバーのマネジメントを受けるきっかけとなったと思えば、このA1GPへの挑戦は、彼の人生を大きく加速させる出来事だったとも言えるだろう。

 2007年、ヒュルケンベルグはユーロF3を主戦場とした。フレデリック・バスール率いるASM(現ARTグランプリ)からの参戦で、チームメイトは小林可夢偉、ロマン・グロージャン、トム・ディルマンと名手揃い。そしてミュッケ・モータースポーツには好敵手ブエミがいた。この年の選手権の主役はタイトルを獲得したグロージャンと、9点差で選手権2位となったブエミだった。

 ヒュルケンベルグはブエミから23点離され選手権3位。これまで2005年ADACフォーミュラBMW、2006年ドイツF3、そしてA1GPでブエミを上回り続けたヒュルケンベルグだったが、2007年のユーロF3で初めてブエミに敗北した。

 2007年ユーロF3は悔しい結果に終わるも、同年ベルギーのゾルダーで開催されたマスターズF3では見事勝利を飾ったほか、ウェバーのマネジメントにより、ウイリアムズF1のテスト参加が実現。その直後にはウイリアムズのテストドライバー就任が発表された。

 皇帝の代理人ウェバーが『次なるミハエル・シューマッハー』に仕立てようしている若手ドイツ人は、一層の注目を集めることになった。ヒュルケンベルグはF1候補生に数えられるなか、選手権2位のエドアルド・モルタラに35.5点差をつけて2008年ユーロF3でシリーズタイトルを獲得する。それは、10大会中6回のポールポジション、20レース中7勝を飾る圧倒ぶりだった。なお、同年のユーロF3には日本から塚越広大(最高位2位4回/選手権7位/マノー・モータースポーツ)、大嶋和也(1勝/選手権19位/マノー・モータースポーツ)が参戦していた。

 ヒュルケンベルグは続けて、2008年10月から2009年4月までに開催されるGP2アジアシリーズのうち、2戦4レースにスポット参戦。1勝、3位1回、4位2回という成績で、スポットながら選手権6位となっている。チャンピオンに輝いたのはトヨタ育成の小林可夢偉(ダムス)だった。そのほか、日本からは山本左近(ARTグランプリ)、スポット参戦勢では吉本大樹(BCNコンペティション)、関口雄飛(DPR)が出走していた。

 そうしてヒュルケンベルグは2009年を迎えた。この年の最大のライバルはグロージャン(バルワ・アダックス・チーム/旧カンポス・レーシング)となるはずだった。事実、シーズン序盤はグロージャンが選手権をリードし、ヒュルケンベルグは彼の背中を追う状況だった。

 しかしシーズン後半、8レースを残す状況でグロージャンはGP2を去った。クラッシュゲートに伴う一連の騒動でネルソン・ピケJr.がシーズン途中にルノーF1を離れ、代わりにグロージャンがルノーF1のシートに座ったからだ。

 グロージャンが去って以降の8レース、2勝&表彰台登壇計5回という安定した好成績を刻んだヒュルケンベルグは、GP2史上初めて最終大会の2レースを前にGP2タイトル獲得を決めた。最終的に選手権2位のビタリー・ペトロフに25点もの大差をつけていた。

 翌2010年、中嶋一貴の後任としてヒュルケンベルグはウイリアムズからF1デビューを果たした。なお、ヒュルケンベルグの昇格にあたり、ウイリアムズは新たなテストドライバーを探すことになり、フィンランド出身のバルテリ・ボッタスというユーロF3参戦中の若手と契約を結んだ。

 F1参戦初年度の2010年第18戦ブラジルGP。幸運が味方し、ヒュルケンベルグは雨が降るなか自身初ポールポジションを獲得し、自らの非凡さを世界に見せつけた。代理人ウェバーとの出会いからF1初年度まで、ヒュルケンベルグは実力に加えて、運にも恵まれたキャリアだった。

 しかし、その後のF1キャリアではなかなか幸運が訪れなかった。彼が初めてF1の表彰台に上がったのは、2025年第12戦イギリスGPでの3位。23歳でF1初ポールポジションを掴んだ青年は、この時すでに髭が似合う37歳を迎えており、F1史上最遅となる239戦目での初表彰台だった。

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