• 大会:2006年第1戦バーレーンGP
  • 出走チーム:ウイリアムズ・コスワース
  • 予選:12番手
  • 決勝:7位

 カートレースやジュニアフォーミュラで豊富な経験と実績を積んだロズベルグにとって、F1への最終関門は創設初年度(2005年)のGP2(現在のFIA F2)で王座に就けるかどうかの一点にあった。『1982年F1王者の二世ドライバー』というやっかいな肩書を持ちながら、それを撥ね退けてGP2創設初年度の王座に就いた。

 2005年はBMWウイリアムズのテストドライバーの職責を担い、2006年はコスワースエンジンに変わったウイリアムズと正式ドライバー契約。こうして迎えたF1デビュー戦、ロズベスグは予選Q1を無事に通過するもQ3進出は叶わず12番グリッドに留まる。

 しかも、決勝レースでは1周目に10番グリッドスタートのニック・ハイドフェルド(BMWザウバー)と接触。フロントウイングの交換で緊急ピットインを強いられ、コースへ戻ったときは圧倒的な最後尾となった。

 それでもロズベルグはあきらめず、当時F1史上最年少となる20歳258日でのファステストラップを記録しながら上位陣に迫った。絶望的な位置からの挽回ににもかかわらず、ロズベルグは最終的に7位入賞をチームへもたらした。

「ターン1ではハイドフェルドがもう少しスペースを残してくれるだろうと期待していたけれど、あの事故で最後尾まで落とされてしまった。でも、チームが最高の仕事をしてくれて、追い上げるバトルを心から楽しめた。デビュー戦で7位入賞、ファステストラップまで獲得できるなんて、望んでいた以上の結果だね」とロズベルグは語った。

■ニコ・ロズベルグのF1初優勝

  • 大会:2012年第3戦中国GP
  • 出走チーム:メルセデス
  • 予選:ポールポジション

 F1参戦7シーズン目にようやくロズベルグは夢をかなえた。予選では彼自身初、チームとしても初のポールポジション獲得。Q3で記録した1分35秒121は圧巻で、2番手以降のルイス・ハミルトン(マクラーレン)や同僚ミハエル・シューマッハーを0.5秒も引き離した。なお、ハミルトンのクルマはギヤボックス交換を受けており、5グリッド降格ペナルティ。これにより、メルセデスの2台がスターティンググリッドのフロントロウ独占となった。

 決勝はメルセデスの2台がワンツー体制を築いてリード。ただし、シューマッハーは1回目のピットストップで右前輪が正しく装着されておらず、レース序盤に自らリタイアを選んだ。このレースでは速さを積み重ねる3ストップを選ぶドライバー/チームも多かったが、ロズベルグはタイヤマネジメント重視の2ストップを選択。何人かのドライバーが苦しんだピレリタイヤの“崖”にも見舞われず、2位ジェンソン・バトン(マクラーレン)に20秒以上の大差をつけて優勝した。

「週末は完璧に過ぎた。初のポールポジション、F1で初の勝利、本当に素晴らしい。レースは決して簡単じゃなかった。最後の20周は、まるでル・マン24時間レースを戦っているかのように長く感じた」とレースを振り返ったロズベルグ。111戦目の初優勝については、「僕がいつ勝てるのか、そもそも勝てる能力があるのか疑問視する声があるのは知っていた。今回の勝利は、そうした雑音に対する完璧な答えだと思うし、これからはもっと落ち着いてレースに臨める」と答えた。

■ケケ・ロズベルグ(1982年王者)のF1デビューレース

  • 大会:1978年第3戦南アフリカGP
  • 出走チーム:セオドール・フォード
  • 予選:24番手
  • 決勝:リタイア

 スウェーデン生まれでフィンランド育ちのケケ・ロズベルグは、同世代のドライバーと比べても、29歳でのF1デビューは遅いと言えた。レース活動を続け、ステップアップするための資金稼ぎに忙しかったからだ。実績を残して名を売り、積極的に世界を駆け巡った。北米、南米、オセアニア、アジア、全日本F2参戦のため来日もした。彼自身の熱心なスポンサー活動も実を結び、職業ドライバーの地位を確立すると、ようやくF1デビューの機会が巡ってきた。

 チームは裕福な香港実業家テディ・イップが率いるセオドール。もっともチームの台所事情は厳しく、クルマもハンドリングが悪くパワーも足りないセオドールTR1フォード。後方グリッドから上位を目指すも、クラッチドラブルで16周目にあっけなくリタイアした。なお、彼は自叙伝や後年のインタビューで下積み時代を次のように語っている。

「世間は私を“遅咲きのドライバー”とか“突如現れた男”なんて言うがとんでもない。私はF1に入るずっと前から、世界中でレースをして生計を立ててきた。自動車メーカーの支援もなければ、大口の個人スポンサーもなかった。スタートマネー(出場手当)と賞金が出るレースがあれば、私は喜んで飛行機に飛び乗った」

「まともなパーツも買えないチームで走るのもザラ。メカニカルトラブルでいつ壊れるか分からないマシンでも、走らなければならなかった。たとえ恐怖を感じていても、私は右足(アクセル)を踏み込み続けた。それがレースだろうし、そうして自分の価値を証明し続けるしか、弱小チームに居た私がのし上がる方法はなかった」

 なお、2週間後にイギリス・シルバーストンで開催されたF1非選手権(ノンチャンピオンシップ)BRDCインターナショナルトロフィーに、ケケ・ロズベルグはやはり非力なセオドール・フォードで参戦し、17台中11番手で予選を通過した。決勝は激しい雨の中で実施され、事故やスピンで有力ドライバーが姿を消す中、エマーソン・フィッティパルディ(コパスカー・フォード)との一騎討ちを制して優勝を飾っている。ちなみにこの1978年シーズン、ロズベルグは5大陸で36週末、41レースに出場と東奔西走の大忙しだった。

1978年第3戦南アフリカGP F1デビュー戦を迎えたケケ・ロズベルグ(セオドール)

■ケケ・ロズベルグのF1初優勝

  • 大会:1982年第14戦スイスGP
  • 出走チーム:ウイリアムズ・フォード
  • 予選:8番手

 F1キャリア初期は下位チームで走り、シートが無い時期もあり、あっても予選落ちや予備予選落ちと苦労。しかし、1982年に思わぬ話が持ち込まれる。エースのアラン・ジョーンズが引退し、獲得を狙っていたリカルド・パトレーゼとの交渉も不調に終わったトップチームのウイリアムズが、ロズベルグに声を掛けた。

 彼はシーズン序盤から入賞、表彰台とポイントをコツコツ積み重ねた。迎えたシーズン終盤のスイスGP。ちなみにスイスの名称が使われているものの、実際の開催地は隣国フランスのディジョンである。

 ターボエンジン勢の後塵を拝してロズベルグは予選8番手。決勝ではタイヤマネジメントに苦しむライバルを尻目に着々と順位を上げ、残り数周でトップのアラン・プロスト(ルノー)に追いつく。79周目の最終コーナーで追いつき追い抜いた。そして80周を走り切って優勝かと思われたが、運営側のミスでチェッカーフラッグは振られず。余計な1周を走らされたものの、参戦44戦目にしてF1初優勝を飾った。

「(終盤プロストに近づいたとき)唯一の懸念は、彼が僕をブロックしてくるかどうか? でも、アランはいつものようにフェアでクリーンな態度で、僕のためにスペースを開けてくれた。僕のマシン(FW08・フォード)は完璧だった。タイヤのタレも一切なく、最後まで全力で攻められた」とロズベルグは記者会見で語った。同年、僅か1勝ながら彼はF1王者に君臨した。

(執筆:石井功次郎)

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