年が明けると2014年1月26日から2月19日まで、フェルスタッペンはアメリカ・フロリダ州に飛び、フロリダ・ウインターシリーズというプログラムに参加した。期間中は4ラウンド12のレースが実施されているが、同プログラムはあくまで『レースを通じてトレーニングを行う』ことを目的にフェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)が立ち上げたシリーズだったため、FIA国際自動車連盟や各国のモータースポーツ統括機関/ASNが認定する選手権ではない。
とはいえ、非常に贅沢なシリーズだった。使用車両は、2013年のフォーミュラ・アバルト終了で行き場を失いかけたタトゥースFA10Bシャシーに190馬力を発するフィアットの1.4リッター414TFエンジンを積む、現在のFIA F4に相当するパッケージ。全車両のメンテナンスは、シリーズを運営するFDAが統括し、プレマ・レーシングなどが技術協力として携わっていた。




開催場所は、セブリング、パームビーチ、ホームステッドと、いずれもフロリダ州内。「気候、スポーツ、物流の面で、この地域が年初めに理想的な条件を備えているため」に、フロリダを拠点とすると決めたとFDAは説明している。
フェルスタッペン以外の参加者にはFDAメンバーだったラファエレ・マルチェッロ、アントニオ・フォコ、ランス・ストロールのほか、のちにウイリアムズからF1を戦ったニコラス・ラティフィ、全日本スーパーフォーミュラ選手権に参戦したタチアナ・カルデロン、ランボルギーニ・スーパートロフェオなどに参戦した日本の笠井崇志など、前年のFIA F3ヨーロピアン選手権参戦ドライバーから有力カートドライバーまで、幅広い層が集った。
そんななか、フロリダ・ウインターシリーズでの実戦開始を4日後に控える1月22日、ホームステッド・マイアミで行われた事前合同テストの際、フェルスタッペンは真っ先にミスを犯した。
午前のセッション開始にあたり、フォーミュラ・アバルトでコースに出ようとピットロードを進んだフェルスタッペンは、ピットレーンリミッターを注視して進んだ。そのまま、フェルスタッペンはピットロード出口の渋滞最後尾にいたフオコに60km/hの速度で追突。2台のフォーミュラ・アバルトは大きなダメージを負い、フェルスタッペンはフオコに謝罪することになったというエピソードもあった。
なお、フロリダ・ウインターシリーズの4ラウンド12レースにおいて、最も好成績を収めたのは優勝4回、計7回の表彰台を掴んだフオコだった。優勝回数ではラティフィが4勝で並び(2位相当)、フェルスタッペンは2勝(3位相当)だった。
さて、フロリダ・ウインターシリーズは、『レースを通じてトレーニングを行う』ことを目的としており、コースを走らない日も多様なプログラムが実施された。たとえば、第2戦までの7日のうち4日間、ドライバーはFDAが用意したワークショップに参加した。フロリダ州スチュアートに設けられた共同メンテナンスベースで、メカニックとともに自分たちのマシンの整備に携わったのだ。フェルスタッペンは車両の分解、清掃、ギヤボックスとデフのチェック、ブレーキパッド交換を自らの手で行い、自らの乗るクルマの隅々を触った。
また別の日には、FDAのテクニカルディレクターを務めるフランチェスコ・ポンによるレーシングカーの構造をはじめとした講義。フィットネストレーニング、記者会見シミュレーションなど、短期間でドライバーの成長を促す取り組みが詰め込まれていた。リザルトだけ見れば4ラウンド12レースのうち2勝、ファステストラップ3回、ポールポジション3回(予選は全8回)という表記に過ぎない。ただ、フェルスタッペンは多くの失敗と改善に至るまでのプロセスを経験し、四輪デビューシリーズとなる密度の濃い4週間のフロリダ生活を終えたのだった。




フェルスタッペンは続けて、2024年4月より開幕したFIA F3ヨーロピアン選手権に参戦する。チームはかつて父ヨスも加入経験のあるオランダの老舗ファン・アメルスフォールト・レーシング(VAR)だった。フェルスタッペン家とは縁深いチームだったが、前年度のチームランキングは7位で、決してFIA F3ヨーロピアン選手権でタイトル争いを繰り広げるような強豪チームではなかった。
フェルスタッペンは、オランダのナショナルカラーであるオレンジが目立つマシンで参戦を開始した。シーズン序盤の4戦12レースの成績は、優勝1回、2位1回、3位1回、入賞回数5回、リタイア5回、DNS1回と、のちのF1王者らしさは、この時点では感じられなかった。
しかし、第5戦スパ・フランコルシャン、第6戦ノリスリンクの2戦6レースで、フェルスタッペンは6勝連を飾った。シーズン序盤から選手権の主導権を握っていたエステバン・オコン(プレマ・パワー)はこの間は太刀打ちできず、16歳が一気にタイトル候補に名乗りを上げた。続く第7戦モスクワではオコンが3連勝を飾るが、いずれにしてもFIA F3ヨーロピアン選手権の話題の中心は、フェルスタッペンに変わった。
8月になり、フェルスタッペンはオランダの物流企業HSFロジスティクスとスポンサー契約を締結。第8戦レッドブルリンクより、サイドポンツーンにHSFロジスティクスのロゴが入った。ただその翌戦からは、マシンカラーリング、ヘルメット、レーシングスーツに至るまで、すべてのカラーリングが変化する、より大きな契約が締結されたのだった。




8月12日、フェルスタッペンはレッドブルの若手ドライバー育成プログラムであるレッドブル・ジュニア・チーム入りを発表した。さらにその6日後、スクーデリア・トロロッソが翌2015年より、フェルスタッペンをレギュラードライバーとしてF1に迎え入れることを発表した。
つまり、F1デビューありきの育成プログラム入りだった。なお、トロロッソ加入発表時点でフェルスタッペンは、F1に乗ったこともない16歳だった(2014年8月末に初めてF1のテストドライブを実施)。2013年8月、イギリスのペンブリーで初めてフォーミュラ・ルノー2.0に乗った青年は約1年後、F1のレギュラーシートを手に入れたのだった。
レッドブルのロゴを纏ったフェルスタッペンが初めてコースに出たのは、FIA F3ヨーロピアン選手権の第9戦ニュルブルクリンクの週末を迎えた8月15日だった。とはいえ、フェルスタッペンの主戦場はすでにFIA F3ヨーロピアン選手権ではなく、2015年のF1参戦に向けた準備だった。翌週にはF1ベルギーGPに帯同し、ホスポタリティではトロロッソが主催するメディア向けの囲み取材に応じた。そして10月の日本GPで、金曜フリー走行1回目(FP1)に出走。これがF1の公式セッションデビューだった。
F1昇格を決めた8月以降、FIA F3ヨーロピアン選手権の3戦9レースにおいて、フェルスタッペンは3勝、表彰台5回、リタイア2回という成績を残した。シリーズタイトルは、ノーポイントレースが少なく安定して速さを見せたオコンが獲得。フェルスタッペンは選手権2位のトム・ブロンクビスト(ジャゴニャ・アヤム・ウィズ・カーリン)から9点差の選手権3位となった。なお、7月にザントフォールトで開催されたマスターズF3にはモトパークから参戦し優勝。1993年の父に続き、親子でオランダ伝統の一戦を制することになった。




フェルスタッペンが、F1昇格前に参戦した最後のレースは、11月16日に決勝を迎えた第61回F3マカオグランプリだった。予選はポールポジションのフェリックス・ローゼンクビスト(ミュッケ・モータースポーツ)から0.251秒差の3番手と好位置につけるが、予選レース4周目にブレーキをロックさせてしまい、ウォールにヒットしリタイアしてしまう。
決勝は24番グリッドスタートとなるなか、好走を見せ続けて7位までポジションを上げてチェッカー。ファステストラップを記録し、暫定表彰式で表彰を受けた。フェルスタッペンはマカオの戦いを振り返る間もなく、翌週にはヤス・マリーナで開催されたF1アブダビGPに帯同。レースウイーク明けに行われたプレシーズンテストにおいて、トロロッソSTR9で周回を重ねたのだった。
フェルスタッペンの2014年は、レース結果だけを見ればそこまで驚きは多くない。ただ、レーシングカートからF1レギュラーシートを得るまでの期間の短さは驚嘆に値する。もちろん、活動資金に困らない元F1ドライバーの息子、キャリア初期から代理人を含む万全のバックアップ体制という背景はあるものの、その環境を生かし、F1昇格後も結果を残し続けてきたフェルスタッペンという存在に改めて驚かされる。現在28歳の彼がいつまでF1に乗るのかはわからない。ただ、たとえF1を離れても、新天地で記録を塗り替えるような活躍を見せるような気がしてならない。




