ハミルトンは、2001年の四輪初レースから2004年まで、一貫してイギリスのマノー・モータースポーツから出走していた。ただ、2025年のユーロF3参戦へ向けて、前年王者のグリーンが所属し、メルセデスエンジンユーザーだったフランスのASMというチームに移籍した。このチームはのちにスクーデリア・フェラーリのチーム代表に就任するフレデリック・バスールが立ち上げたチームで、その後ARTグランプリへとリブランドされる。

 ASMに移籍したハミルトンは2005年ユーロF3の全20レースのうち、ポールポジション13回、優勝15回、フェステストラップ10回を記録。表彰台に上がらなかったのは技術違反による失格1回、リタイア1回を除けば12位でフィニッシュした1度きり。圧倒という言葉が相応しいシーズンを過ごし、ユーロF3王者に輝いた。

 同年のランキング2位はエンドリアン・スーティル(ASM)だったが、ハミルトンの獲得ポイント172点に対し、スーティルは94点。最終戦を前に逆転が叶わない状況となったスーティルは、最終戦(2レース)を欠場している。

 また、同年6月にオランダ・ザントフォールトで開催されたマスターズF3においても、ハミルトンのライバルはスーティルだった。結果はハミルトンが予選PP、優勝、ファステスト。スーティルはここでも2位に終わる。この頃には日本のモータースポーツ専門誌でもハミルトンの名前がたびたび登場するようになった。

 余談となるが、F1デビュー前後のハミルトンは『マクラーレンの秘蔵っ子』と表現されることが多かった。この表現はいつから使われていたのだろうか。ひとまず、三栄が運営する電子雑誌専門店のASB電子雑誌書店(オートスポーツ・ブックス)で調べると、週間オートスポーツNo.1046/2005年12月29日号のGP2のシーズンプレビュー記事に、ハミルトンの名に並んで『マクラーレンの秘蔵っ子』というキャッチが付けられていることが確認できた。

 2006年、ハミルトンはARTグランプリからGP2に参戦した。ARTグランプリは当時のスクーデリア・フェラーリ代表ジャン・トッドの息子で、フェリペ・マッサのマネージャーだったニコラス・トッドとASMの共同プロジェクトで、商業面をトッド、技術面をバスールが取り仕切る体制だった。

 タバコ広告規制によりブランドロゴが提示されなかったが、マールボロがチームをサポートしており、資金面でも万全の体制を敷いていた(広告規制を回避する“バーコード”模様はエンジンカバーに入った)。なお、当初はGP2のみがARTグランプリ、その他カテゴリーはASM名義での参戦だったが、その後ARTグランプリ名義に統一されている。

 万全の体制で臨んだGP2において、ハミルトンはタイトルを獲得する。ただ、ユーロF3のような絶対王者とまではいかず、最後までネルソン・ピケJr.という強力なライバルとタイトルを競り合うことになり、最終的に12点差でハミルトンが王者に輝いた。

『マクラーレンの秘蔵っ子』と呼ばれていたハミルトンのキャリアを振り返ると、マクラーレン、デニス、そしてメルセデス、そして家族の強力なサポートはもちろん、カート時代に彼を発掘したハインズ。そしてASM/ARTグランプリを率い、現在はフェラーリでともに仕事をするバスールなど、ハミルトンの才能に惹かれた人物たちとの縁が紡いできたキャリアとも言える。

 2025年にハミルトンが、再びバスールの率いるチームに加入し、ともにF1を戦うことになる。なんてことを、彼がF1にデビューした2007年に予想できた人がいただろうか。もし、そんな人物が実在するのであれば、その人は今すぐ宝くじを買うべきだ。

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