TGR TEAM WedsSport BANDOHの代表として国内トップカテゴリーのスーパーGT GT500クラスに参戦しつつ、青年実業家としてさまざまなチャレンジを続ける坂東正敬監督。そんなマサ監督が日々のレースや、実業家としての活動のなかで、面白いと思ったこと、取り組んでいることについて、自ら筆をとります!
今回はまず、レーシングプロジェクトバンドウと長年歩みをともにしてきた織戸学選手のスーパーGT引退について、マサ監督が当時のエピソードとともに自らの言葉で振り返ります。そして10月17〜18日に大分県のオートポリスで開催された2026年スーパーGT第7戦。予選3番手から表彰台を狙いながら、決勝では10位に終わった19号車WedsSport BANDOH GR Supraのレース展開を解説。最終戦もてぎへの展望もアクセル全開でお届けします。
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押忍! 坂東マサです。
第7戦オートポリスの後には「えっ?」「なんで?」「3番手スタートだったのに10位なの?」などと多くの人に聞かれました。レースの詳細については後半で触れますので、少々お待ちください。
まずは、僕と親交が深く、レーシングプロジェクトバンドウでも活躍した織戸学選手のスーパーGT引退について先に書かせてください。
織戸さんは、この業界で一番仲が良い先輩であり、元上司であり、ライバルであり、恩人です。2カ月ほど前、織戸さんから電話がかかってきて「俺は今年でスーパーGTを引退しようと思う」と言われました。もちろん、年齢(57歳)のことを考えるとある程度は想定していたことですが、それでもやはり寂しかったです。
「次は何をするんですか?」と聞くと、次のビジョンも教えてくれました。その話は織戸さんから許可が出たら改めてお話ししたいと思います。
織戸さんとレーシングプロジェクトバンドウの歴史は、今回のコラム1本だけでは到底語りきれるものではありません。
織戸さんは、もともと有限会社坂東商会の社員でした。JGTC全日本GT選手権にデビューしたのは1996年。当時はもちろん社員ドライバーとしての参戦で、翌1997年にRS☆Rシルビアでフル参戦してシリーズチャンピオンを獲得しました。
その1997年、当時の監督は坂東正明でしたが、僕は織戸さんの付き人のようなかたちでサーキットに連れていってもらっていました。ちなみに僕が坂東商会に入社したのは1996年12月で、織戸さんは僕の上司にあたる存在でした。
もちろんその頃から織戸さんはスーパースターで、雑誌やDVDなど多方面で活躍していたので『すごい人だなぁ』と思っていました。しかし、入社したばかりの自分には、当時のGT300チャンピオンという実感はまったくありませんでしたし、坂東正明から直接何かを教えてもらった記憶もありません。
織戸さんはその後独立し、GT500ドライバーとしてさらにメジャーな存在になっていきました。たまに飲みに誘ってもらうこともありましたが、正直なところ、少し遠い存在になってしまっていた時期もあります。
織戸さんがGT500ドライバーになってからは、そう頻繁に会うわけではなかったものの、当時の僕がやっていたことや、挑戦したいと思っていたことを話した記憶は今でも鮮明に残っています。
転機は2007年でした。坂東正明がスーパーGTを運営するGTアソシエイション(GTA)に出向することになり、チームの運営を僕が引き継がなければならなくなったのです。正直、スーパーGTのことなど何も分かりませんでしたし、誰に助けを求めればいいのかも分かりませんでした。
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