2025年6月、メルセデス・ベンツが実に26年ぶりにル・マン24時間レースへの復帰を果たした。アイアン・リンクスとのタッグでWEC世界耐久選手権/ル・マンのLMGT3クラスに投入された3台の『メルセデスAMG GT3エボ』は、1989年のル・マンで総合優勝を果たした『ザウバー・メルセデスC9』をオマージュした“シルバーアロー”カラーでサルト・サーキットへカムバックしたのだ。
26年前の1989年には、まだC9をドライブしていなかったものの、その後、ミハエル・シューマッハ、ハインツ・ハラルド・フィンツェンとともにメルセデスの育成ドライバーとして研鑽を積み、やがてC9をドライブすることとなったカール・ベンドリンガーに、今年のル・マンで当時の思い出などを聞いた。
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――あなたが初めてC9をドライブしたのはいつでしたか?
カール・ベンドリンガー(KW)「C9の最初のテストは1989年11月で、翌1990年に私たちがドライブするためのマシンだった」
KW「私にとって最初にC9をヨッヘン・マスと組んでドライブしたレースは鈴鹿だったのだが、まったく鈴鹿のことを知らない私は、子供の頃からかわいがってもらっていた父のレース仲間のゲルハルト・ベルガーに、日本へ行く前にコースの特徴を教えてもらった」
――ヨッヘン・マスさんといえば、先日お亡くなりになりましたね。
KW「彼はとても素晴らしい人格者だった。彼は秘密を一切持たず、マシンに関するあらゆることを私たちと共有し、多くのことを教えてくれた。でも、とくにレース中は燃料を節約しなければならなかったので、少しだけ彼は私たちに秘密にしていたこともあったけどね(笑)」
KW「彼はとてもオープンな性格で、人生経験も豊富で面白い人だった。彼はレーシングドライバーになる前は水兵だったこともあり、そこで経験したさまざまな話を私たちによく話してくれた」
――まだ若かったあなたたちメルセデスの育成ドライバーでしたが、F1ではなかったにしろ“シルバーアロー”をドライブすることになった当時、あなたはどんなお気持ちでしたか?
KW「メルセデス・ベンツ・ジュニアチームの一員になれる機会を得られたことは、本当に特別な気持ちでとても嬉しかった。そしてもちろん、私がドライブしたマシンは紛れもなくシルバーアローだった。メルセデスのモータースポーツの歴史をご存知の方なら、それがどれだけ特別なことだとお分かりいただけるだろう」
■早くF1に行きたいと願っていたが……
――現在、ル・マンのトップクラスはハイパーカークラスとなり今年のトップスピードは349.1㎞/hでしたが、コースレイアウトが違ったこともありC9は当時400㎞/hを超えていたそうですね。
KW「1989年の予選では400km/h以上のスピードが出ていたと記憶している。当時はシケインがなかったので、C9はそれほどのスピードが出せたのだと思う」
――初ル・マン出場へ向けてC9でスポーツカーでの挑戦を開始。当時のあたなの戦績はいかがでしたか?
KW「C9では一度も勝てたことはなかったものの、初レースの鈴鹿で2位、そして同シーズンのモンツァでは後継モデルのC11をドライブしていて、ここでも2位だったと思う」
――当時、フレンツェンはF1へのキャリアを急ぎ、スポーツカーをドライブすることを拒みましたが、あなたにはそのような気持ちはありませんでしたか?
KW「ザウバーやメルセデスがチャンスを与えてくれる限り、スポーツカーへの課題をまずしっかりとこなすべきだと思っていたし、それは私にとってそれは正しい選択だったと考えている」
KW「もちろん、つねに心の奥底では1日でも早くF1に参戦したいと願っていたが、結果的にはスポーツカーでの経験はF1への正しい準備期間だったと思うよ」
――あなたとともにメルセデスの育成ドライバーだったミハエルの長男、ミック・シューマッハーも当時の父のようにWECやル・マンに参戦していますが、少し状況が違いF1からハイパーカーへと移ってきました。必ずしも彼にとっては望んでいる世界ではないようです。
KW「確かにそうだろう。しかし、ジェンソン・バトンをはじめ、ケビン・マグヌッセン、ロバート・クビサ、アントニオ・ジョビナッツィ、小林可夢偉など数多くの元F1ドライバーがハイパーカークラスにいる」
KW「彼らの中にもミックと同様に、自ら希望してF1を降りたのではなく、シートを失ったドライバーもいる。いまのル・マンには非常に優秀なドライバーが揃っている。ミックの気持ちも理解できるが、F1のシートの数は限られている。この非常にレベルの高い世界で戦うことは決して妥協とは思わない」
■セットアップにおける過去と現在の違い
――スポーツカーはシングルシーターのレースとは違い、チームメイトのドライバーと良好なコミュニケーションを取る必要がありと思います。ミハエル・シューマッハと組んでいた当時はどんな感じでだったのでしょうか?
KW「当時はマシンはセットアップのバリエーションがあまりなく、個人のドライブスタイルを考慮してセットアップの妥協点を見つけるということはなかったので、それはそれで良かったと思う。チームが作成した基本的なセットアップがあり、それで大体うまくいっていて、それからリヤウイングや車高を少し調整したり……ただそれだけだった。現在のようにマシンが電子制御によって複雑化される前の時代だったためセットアップのパターンもそう多くはなかったんだ
KW「例えば、ハンドリングに対して自分の希望があったとしても、私は他のドライバーに合わせることはとくに問題なかったし、チームが『これが最良のセッティングだ』と言えば納得していた。私もミハエルもそれに対してとくに困ったこともナーバスになることもなかったし、マシンもきちんと動いていたから問題がなかったのだろう。本当にそういうものだったんだ、当時は(笑)」
KW「それに、私たちは性格がまったく違ったのでチームメイトと険悪になることも一度もなかった」
――現在のトップカテゴリのハイパーカークラスをどう見ていますか?
KW「クルマは24時間をとおして限界までドライブできるように作られていて、それがさらに勝負を難しくしている。グループCの時代は誰も限界のところでドライブしていなかったと思うよ(笑)」
KW「昔は『よし、最初の数時間はこんな感じで走ってみよう。それからあとは様子を見て決めよう』といった感じだった。しかし、いまのマシンは限界までドライブできるように作られているおかげで、ドライバーにとっては体力的にもかなりきついのではないかと思う」
KW「また、いまはBoP(バランス・オブ・パフォーマンス)で車種ごとに性能が調整されているが、当時はそんなものはなかった。グループCではターボチャージャー付きのエンジンでフルブーストで走っていた。しかし、決勝レースではいつも燃費をつねに気を配る必要があった」
KW「私がル・マンに初出場した1991年もターボチャージャー付きエンジンで走っていたが、当時は13周をフルリミットで走るのが限界で、14周目は不可能だった。フルブーストで走る際のエンジンと燃費に関しては、いつもできるだけ労わりながら走らなければならなかったんだ」
KW「数多くの自動車メーカーが集い、そのすべてがトッププロフェッショナルで強い。初めてハイパーカーを間近に見たが、本当にル・マンは素晴らしいイベントだと感じた。私が初参戦した1991年は、ル・マンの公開車検やサポートレースはあったものの、いまのドライバーのようにレースウイーク中にしなければならないことやイベントの参加はなかったので、もっとゆったりしていたと思う」
KW「今後も参入するメーカーが増えるので(※編注:2026年にジェネシスが、2027年にはフォードとマクラーレンが新規参戦予定)、ますます盛り上がるのが楽しみだ。その一方で予選でのタイム差が僅差であることを考えると、ほんの小さなミスが、そのチームのレース全体を台無しにしてしまう可能性もあるのではないかと感じている」
■見るものすべてが新鮮だった、1991年のル・マン
――ル・マンの中でもカテゴリーは違いますが、26年間ぶりに復活したシルバーアローについて、メルセデス・ファミリーの一員としてどう思われますか?
KW「メルセデスのル・マン復帰は本当にとても良かったと思う。私にとってはル・マンはとても良い思い出がたくさんある。私が1991年にル・マンへ来たときは何もかも初めての経験で、本当に印象的でスペクタクルだった。私とミハエルにとって観るものすべてが新鮮だった」
KW「ル・マンでのレースを迎えるまでに最長でも3時間のレースしか経験がなかった。だから、あんなにも長いレースの経験は1991年のあの日が初めてのことで、最高のとても良い思い出になったよ」
――当時のメルセデスのモータースポーツを率いていたのはヨッヘン・ネアパシュ氏。元フォードのモータースポーツ代表でありながらポルシェのワークスドラバーとして活躍、その後はBMW Mの創立しBMWのモータースポーツ部門を本格的に立ち上げたと同時にハイパフォーマンスモデルを作り出した異色の経歴の方でした。映画にもなった『フォードvsフェラーリ』のあの時代にフォードで活躍し、ドライバーとしての経験も豊富な方ですが、育成ドライバーのあなたたちが初めて参戦するル・マンへのアドバイスはありましたか?
KW「彼は当時まだとても若かったけれど、とても落ち着いて静かな紳士で、彼のすべてを心から尊敬できた。彼の発言にはとても説得力があり、ザウバーやメルセデスの中でも絶大な信頼を寄せていた」
KW「当時、彼は甚大な努力を持ってチームやプロジェクトを非常にうまくコントロールしていたと思う。彼からドライバーとしてのアドバイスはなかったけれど、それは彼の性格上おそらく、押しつけがましくしたくなかったのだろうと思う」
KW「彼がドライビングに対するアドバイスをしてくることはなかったが、私たちの初ル・マンではいつも側にいてくれて、何か質問があればいつでも彼に聞くことができたし、それに対して真摯に答えてくれていた」





